むなぐるま

アメリカ在住の研究者(の卵)による日常観察・オピニオン系Blog

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June 26, 2004

古賀センセイの夏休み:再掲

日本の政治の話題。
通常国会はつい先日終了したが、古賀潤一郎議員は約束通りペパーダイン大学へ夏期講座を履修に行くのだろうか。

拙サイトの過去ログから。(トラックバックもいただいてます。)
古賀議員の学歴詐称問題
ペパーダイン大学の夏期講座:古賀センセイの夏休み

 ペパーダイン大学の夏期講座(第III期)は7月6日に始まる。まあ、まだ申し込み手続きをしていなかったら、今から申し込んでも遅いとは思うが。
 「古い話を今更」と言われる向きもあるかも知れないが、政治家は言葉が命である。卒業していなかったことを謝罪するのではなく、「夏休みに単位を取ります」と有権者に約束したのだったら、しっかり単位を取るべきである。古賀氏は自分の言葉に責任を取ってほしいものだ。また、古賀氏は民主党を離党して無所属になっているが、こういうことをあいまいにするのは民主党全体の体質だといえる。自民党の腐敗を責められたものではない。

参考:Pepperdine Summer School

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June 24, 2004

追記:「千夜千冊」について

「千夜千冊」について書いた記事に伊藤さんからコメントを頂いた。松岡氏の経歴について補足があって、少し事情がわかった気がした。この違和感は大事だと思うので、もう少し書く。最初はコメントに書いていたが、独立した記事に移すことにした。
 実は、この「千夜千冊」を見つけたのは、「極東ブログ」のfinalventさんの日記で、finalventさんもこの企画にはだいぶ違和感を感じておられるようだ。(ここここ)昨日の「極東ブログ」の電子書籍についての記事も似たような問題意識だと思う。
finalventさんは松岡氏について、

 概ね、誠実な読書家と言って良いのだろうとは思う。これに池澤夏樹を足せば、日本の出版界における知性は概ねカバーされる。
 だが、そこでスコーンと抜け落ちるのは、まず、オーソドックスな知だ。嫌みに聞こえるかもしれないが、松岡(池澤も)はきちんとしたアカデミックなトレーニングを受けていないのだなと思う。(欧文献を読む訓練もしれないように見える。)
 もうひとつは、ある種の本気だ。小林秀雄がXへの手紙で書いたような、成熟の場としての女のにおいが、まるでしない。
 この男にとって、女への愛とはなんだったのだろう? そして、その問いがリフレクトされない人生とはなんなのだろう? というか、文学とはなんだろう?
と書いておられる。多分私の書こうとしていることとオーバーラップすると思うのだが、すこしずれる部分もあるかもしれない。

 この企画についての自分の立場をもう一度考え直してみたのだが、この企画はやっぱり「緩い」というか、「甘い」と思う。たくさん読んでも、次から次へと消費し、捨てていくような姿勢じゃだめなのではないか。これは、現在の出版界の姿勢に通じるものがあると思う。こんなことを書くと厳しい気がする、こういう企画に対して私が感じている違和感はこれからも大切にしていきたいと思うし、何とか言葉に出来たらと思う。
 たとえば、こういうこと。せっかく中沢新一の例が出たので言うと、私も学部生の頃は『バルセロナ・秘数3』とか好きだった。(伊藤さんの言う通り、私もある意味、オウム予備軍の素養を持っていたのかも知れない。)でも、ある時アメリカで人文学を大学院で勉強している年上の方から、「そういうのはゴミだよ」と言われた。(正確な言葉は忘れたが、要するに紙の無駄ということ。)それからすっかり熱が冷めてしまった。が、何年かして、その言葉の意味がわかった気がする。
 中沢氏は哲学、現代思想から科学までうまく縫い合わせて(レヴィ=ストロース風に言えばbricolageして)語るのが上手な人だが、言ってみれば風が吹けば飛んでしまうようなものだ。対比して言うなら、欧米の人文学は、個々の人間の体験から石の建築物を建てようとしていると思う。その違いは決定的なもので、何を書くか、何が残っていくかということの指針になると思う。もちろん、ポスト構造主義などの洗礼もあって、《構築》がはやらないのは西洋のアカデミックも同じなのだが、煮詰めるレベルにおいてやはり決定的な差があると思う。
 もう一つ例を挙げて言うなら、浅田彰の書いたものは結局欧米圏には翻訳されなかったが、一方、柄谷行人は、「論理が飛躍している」とかいろいろ言われながらも、結局『近代日本文学の起源』から『トランスクリティーク』までいくつか訳が出ている。この違いは大きいと思う。私たちの世代が何か意味がある仕事をしようと思ったら、ニューアカ的なやり方じゃだめだと思う。
 しかし、だからといって中沢氏の著作を全否定するつもりはない。最近の中沢氏の著作は読んでいないのでコメントできないが、『フィロソフィア・ヤポニカ』などは読んでみたいと思っている。最近の彼の文芸誌などの発言を読む限りでは、自分の思想とか文体の「日本的」な性質を受け入れた上で、その部分を最大限に伸ばす書き方をしているようだ。それはそれでアリだと思う。
 もう一言、私の高校の時の国語の先生が、若いときに読んでおくべき本を聞かれて、『世界文学全集』と答えていたのは至言だと今でも思う。

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June 22, 2004

雑感

●おおや先生が早野透の「ポリティカにっぽん」の最新作を分析(つうか、分解)してます(おおやにき:イヤなものがイヤだということ)。早野サン、本当にダメダメですな。ところで、どなたか、朝日系の人々が感じている「米軍占領下の自衛隊イラク派遣」と「自衛隊の(国連安保理決議に基づく)多国籍軍参加」の根本的な差異を教えて頂けないでしょうか。たとえば民主党は国連決議があったらOKって言ってましたよね? それとも、「イラクはやばくなってきたからオリよう」っていう話なんですか? 

●aozora blogのtenさんという方のエッセイがいいですね。(鴎外はいたジャイアント馬場さんにパンを横取りされた話
aozora blogは方向性が見えないが、もっとこういうエッセイを載せてくれればいいのに。

●マイケル・ムーアの "Fahrenheit 9/11" の全米公開が今週の金曜日に迫りました。一応見に行こうかと思っていますが。早速、先日も引用したヒッチンスが長文のムーア批判を書いてますね。文章の長さに現れているヒッチンスの情念がちょっと怖くてまだ読んでませんが。

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「松岡正剛の千夜千冊」

数日前から右手の「メモ」に晒していたんですが、最近こんな企画を発見。

松岡正剛氏は、氏のウェブのプロファイルによると、「メディア界に刺激を与える名編集者で、常に情報文化技術の先端を走る。また、日本文化研究の第一人者で、世代を超えて多くのファンを持つ講義名人」とある。このページを見るまでこの人の仕事については寡聞にして知らなかった。まあ、この人の仕事はともかく、この企画はある書店とタイアップしているようなので、東京で書店に出入りするような人は否応なしに見聞きしているのかも知れない。

このサイトを発見してあちこち斜め読みしながら、何だかなー、とため息をついてしまった。この違和感はうまく言葉になるかどうかわからないのだが、書いてみよう。
毎回、ある本にスポットが当てられ、松岡氏がエッセイを書くという体裁になっているのだが、このエッセイの文章が、一言で言うと「緩い」のである。文体に締まりがないのもそうだが、まずどんな読者層に向けて書かれているかよくわからない。たとえば、鴎外の「阿部一族」のページを見ると、「興津弥五右衛門の遺書」のあらすじを延々と敷衍してあると思えば、鴎外の歴史小説への「転向」と乃木大将の殉死についての教科書的な解説が続く。冗長だなという感想とともに、この筆者はこれだけの労力を費やして何でこの文章を書いているのかなと疑問に思ったりする。こう思うのは自分が知ってる本だからかと思って自分が未読の本をみると、解説部分が少々くどく、核心のところはさらっとスルーしたりしている。例えば、姜尚中の『ナショナリズム』の回では、肝心のポイントについての記述がなく、がっかりさせられた。知ってることはだらだら書いてあるし、知りたいと思うことには切り込んだ跡が見えない。これなら読んだ方が早いな、というのが正直な感想なのである。

そこではっと気がついた。この企画、教養として当然読んでおかなければいけない本への案内ではなく、これらの本を読まなくてもいいように解説してあげましょう、というのが目的なのではないか。「名編集者」たる松岡氏が、忙しい現代人のために「名著」を読んであげましょうという企画なのだ。そう考えるとすべて納得がいく。

しかし、この「読まない人のためのガイド」を眺めていると、本末転倒ではないかという疑問はぬぐえない。読書というのが少しながらも意味を持つのは、これらの本を読みながら少しずつ自分なりの知識なり感覚なりを蓄えていくそのプロセスにある。それは一対一の出会いのようなもので、他の人に代わってもらうことは出来ないものだ。また、他の人の読書体験が参考になるとしたら、それは、その読み手が出会った本の核心部分の問題と格闘して、なにを言えるか、言ったかという面だと思う。この営みが「批評」ならば、このガイドはもとからその役割を果たそうとしていない。

いくつかのエントリを読みながら、松岡氏なりの洞察というか、思いつきというか、そういうのに興味をそそられたことはあった。特に、いくつかの本を通して日本文化とか、日本のナショナリズムについて何度か言及しており、これらの本の議論を縫い合わせながら(もしくは、隙間を縦走しながら)なにか興味深い見解があるのかな、と思わせる部分もある。だが、そういうモチーフも結局はきちんと煮詰められておらず、肩すかしを食らうことが多かった。この文章がどうやって書かれたかをドキュメントしたページを読んでみると、期待したような、思索を煮詰めるような作業はとても無理だとわかる。

何より私が疑問に思うのは、膨大な労力を費やしてこのような毒にも薬にもならない(と言うと言い過ぎだが)ガイドを作るという企画が、出版者らや関連業者の企画会議でどうやって通ったのか、ということだ。一つの答えとしては、本の内容よりも本というモノを欲望してしまう思想フェティッシュ的な傾向があると思う。これは、書き手の問題と言うより、編集者の問題である。たとえば、筒井康隆の『文学部唯野教授』で、脚注に思想家やら書物の名前を続々と並べるような。あの本以来、対談本などにもやたらと細かい脚注を付けた本が増えたが、紙の無駄というか、ペダンチックで嫌味に感じる。その根底には、アカデミックな本でも「売れる」本としてつくらなければならないという現在の日本の出版界の現状があると思う。

「日本の出版界は…」と大上段に構えてみたが、「日本の」出版界を「外」から批判しようというつもりはない。実際、私は半年ほどある中堅の出版社でバイトしていたことがあるので、こういう企画が出てくる内側のメカニズムというのは理解できる気がする。だから致し方ないという気もする。でも何か抗議めいたことを書こうと思ってしまうのだ。

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June 19, 2004

ホットドッグ早食いはスポーツか

Takeru "The Tsunami" Kobayashi(小林尊)こそ、国際的なセレブ(極東ブログ)

今年も、コニーアイランド名物のホットドッグ早食いコンテストの季節がやって来た。
このイベント、公式サイトによると第一回は1916年に行われたとあるように歴史のあるイベントなのだが、ほんの数年前はNYローカルのマイナーなイベントだったように思う。私の経験では、7月4日のNY近郊のローカルニュースで、終わり頃に地元の話題として流れる程度だったと思う。むしろ、日本食料品店のレンタルビデオで「TVチャンピオン」を見て、こんなイベントにも日本人が参加していると気がついたくらいだった。しかし、この2、3年は断然アメリカの各種メディアの注目を浴びており、メジャー化が進んでいる。特に、今年はスポーツ専門局のESPNが7月4日に生中継するということで、ESPNのサイトではこんな記事が出たりして期待感をあおっている。

このメジャー化の背景に、小林尊の活躍がある、というと日本人への贔屓目に見えるかもしれないが、実際彼の出現によりこのイベントの質がかわったように思う。
●まず、彼のデビューが鮮烈だったこと。2001年に初登場したとき、今までの記録が12分で20個そこそこだったのが、いきなり50個という、今までの2倍以上の新記録を立ててしまった。これはインパクトがある。
●このサイト(去年の早食いコンテストの特集番組を紹介している)の表題にある通り、アメリカのシンボル的な存在のホットドック早食いを日本人が独占しているという状態は、アメリカ人としてはかなり愛国心を挑発するものがある
●さらに、彼は外見(やせ型)と実力(大食い)のギャップが大きいから、テレビ的には「キャラ立ち」して、番組にしやすい。
というわけで、彼はホットドッグ早食いのヒーロー的存在になったといえる。APの記事でも中心的に扱われているのも当然といえるだろう。

ところで、このイベント、仕掛け人が非常にうまくやっている部分もある。単なる「早食い」を "competitive eating" という「スポーツ」として売り出し、"International Federation of Competitive Eating" という競技団体まで作ってしまった。(公式サイト)この会長と名乗るジョージ・シェイという人物は前述の特番にも出てきたのだが、なかなかやり手の営業マンという感じの人物だった。また、つい最近、ESPNの特番に引っかけて、「Competitive Eatingはアイスホッケー(NHL)よりもメジャーなスポーツになった」と豪語したのが話題になった。とにかく話題作りがうまいのだ。

さて、この件に関連して、面白いアンケートをESPNのサイトで発見。「次の競技のうち、スポーツといえないのはどれ?」というもの。ゴルフ、卓球、自動車レース、ドッジボールなど、普通はスポーツと思われていても「運動能力」を使うという点で疑問視されている競技の他に、次のような、今までの常識ではスポーツとは見なされなかった競技についてアンケートしている。
○ポーカー (25.6%)
○チェス (18.3%)
○ジャグリング (20.9%)
○スペリング(英単語をスペルできるかどうかを競う) (5.4%)
○Competitive Eating (28.8%)
○ダーツ (50.3%)
括弧内は「スポーツと思う」人の比率。スペリング以外は、意外と高い支持率を得ている。この中でも、特にポーカーは今アメリカではまれに見る大ブームを巻き起こしている。ESPNは朝から晩までポーカー世界選手権の再放送を流しているし、オンラインポーカーもものすごい人気らしい。とくに、No Limits Texas Hold'em という種目が、高いギャンブル性もあって注目を集めている。芸能人のポーカー番組などもすべてこの種類でプレーしている。

では、ポーカーはスポーツなのだろうか。このコラムでは、選手たちがものすごいプレッシャーと戦っている、その点だけでもスポーツと見なして良いと言っている。たしかに、ポーカーの中継を見ていると、個性ある選手が次々出てくるし、競技のドラマ性も申し分なく、ついつい見せられてしまうのは確か。スポーツをする方はともかく、スポーツを見る醍醐味はドラマにあるといえるからだ。

社会学的に見れば、「スポーツ」というのは、現代社会を理解する切り口として興味深い現象であると思う。スポーツは言うまでもなく巨大ビジネスと化しているし、また、多くの人々がスポーツとなると我を忘れて熱狂するというのも、アメリカ文化におけるスポーツの占める位置の大きさを示していると思う。

ともあれ、もしポーカーがスポーツだといえるならば、ホットドッグ早食いは間違いなくスポーツといえるだろう。これまでの経過からして、小林選手は多分今年もぶっちぎりで優勝するのだろう、と予想を書いてしまうところを見ると、自分もこの「スポーツ」の魔力に取り憑かれているようだ。

おまけ:「07年頭脳五輪」実現目指す 国際囲碁連盟総会で決議 (asahi.com)

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June 14, 2004

レーガン・ジュニアの弔辞

今日午前、クリントン元大統領の肖像画のお披露目がホワイトハウスであったのだが、そこでブッシュ大統領がクリントン氏に向けたスピーチが話題になった。クリントン氏のことを、「暖かく、情熱的な人柄」であり、「公共政策について幅広い知識を持ち、助けを必要としている人々に対して情け深く、アメリカ国民が大統領に求める前向きな精神を持っていた」などと言ってべた褒めしたのだ。(CNN, NYT)
 普段は何か批判されるとクリントン政権時代の政策のせいにすることが多いブッシュ大統領としては、このほめ言葉は何とも不思議。ほめ殺しなのか、はたまた民主党の大統領候補ケリー氏とは仲が良くないとされるクリントン氏に「敵の敵は味方」とばかりに援護射撃したのか、なんとも不思議なスピーチだった。どちらにせよ、クリントン氏はケリー氏に比べたら国民的人気、カリスマは段違い。もうすぐ自伝が出版されるのだが、その出版記念ツアーが大統領選挙よりも注目を集めてしまうのではといわれている。クリントン氏に注目が集まれば集まるほどブッシュ氏にとっては都合がいいことには間違いない。
 いっぽう、先週の金曜日、レーガン元大統領の葬儀での実の息子、ロン・レーガン・ジュニアの弔辞が話題になっている。
その中で、新聞記事に引用され、テレビの政治番組などで何度もリプレイされているのはこの一節。

Dad was ... a deeply, unabashedly religious man. But he never made the fatal mistake of so many politicians wearing his faith on his sleeve to gain political advantage.

この部分が、現大統領にたいするあてこすりだというのだ。
 先週一週間は、金曜日の国葬まで、一週間の間アメリカ国中レーガン氏を偲ぶムードで満ちていた。レーガン大統領は国民的人気のある大統領だったが、この一週間は「アメリカにオプティミズムを回復した大統領」「冷戦を終わらせた大統領」としてその功績を高く評価する特集番組が相次いだ。(国内政治的には、共和党の党是を大きく変更し、現在の方向性を決定した大統領とも言われる。保守的な社会政策など、リベラル層とは相容れない政策を持っていたのだが、この一週間はそうした批判のトーンは自粛気味だった。)
 現政権がこのレーガンに対する好意的な世論を早速政治的なアドバンテージに変えたいと思うのは当然で、ブッシュ氏再選の選挙本部のウェブサイトでは、早速レーガン大統領の演説集を載せて、ブッシュ氏をレーガン氏の正当な後継者と位置づけようとしていた。しかし、レーガン家の人々は、現大統領に批判的は人々が多い。実際、ロン・ジュニア氏は1年以上前のsalon.comのインタビューにおいて、現ブッシュ政権を痛烈に批判している。このインタビューを読むと、ロン・ジュニア氏は政治的にはかなりリベラルで、父とは毛色が違う感じ。現在はMSNBCのニュース番組のリポーターをしているが、今のところ政治家になる希望はないといっている。
 イラク戦争などの外交政策はもちろんなのだが、一番の問題は、実はES細胞を研究目的に使うかどうか、という問題だ。現政権では、ES細胞の研究利用は生命の尊厳に関わるとして、資金的にも利用できる細胞の数にしても制限が多い。一方、レーガン夫人のナンシー氏は、レーガン大統領自身がアルツハイマーであることを公表して以来アルツハイマー病治癒のための研究のサポートを続けており、ES細胞の研究利用の制限をはずすよう、運動してきた。現政権がES細胞の利用に消極的なのは、ブッシュ政権を支えるいわゆるキリスト教右派が、クローンなどのバイオテクノロジー、また人間の生命誕生のプロセスに科学的に介入することに反対しているため。BBCのこのニュースがこの辺りのいきさつをよくまとめてある。ロン・ジュニア氏の弔辞に戻ると、「父は敬虔な人だったが、自分の信仰を政治利用しなかった」というのは、キリスト教右派におもねるブッシュ大統領へのあてつけだったというわけ。また、先日のローマ法王謁見の際、アメリカ国内のカトリック層に自分の政策を支持するよう働きかけて欲しいと根回ししていたというニュースも関係しているのだろう。(この件についてはandrewsullivan.comのブログに詳しい記事がある。)
 ブッシュ大統領の支持率が下がってきて、秋の大統領選にも厳しい見込みが出ている中、なかなか大統領の味方が見つからない様子。クリントン氏をほめたのも、先週のこのニュースと関係があるのだろう。(どう関係があるかというとうまく言えないのだが。)

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June 09, 2004

メモ。

このページ右手に「メモ」コーナーを作りました。ネットサーフィンをしていて見つけたニュース記事や、本編にまとめるまでもない小ネタを記録しておきます。こちらは随時更新していきます。また、予告なしにリンクを消すこともありますので、興味があるリンクは早めにメモしておいてください。一方、本編の方は更新回数が少し減るかもしれませんが、少しまとまった内容のコラムを書いていくつもりです。

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虐待はホワイトハウスからの指示?

ウォールストリートジャーナル紙は、ペンタゴンの機密文書を公表。この文書は2003年3月6日付け。捕虜に対する尋問を「合法的に」行うことについて法的・歴史的・実務的根拠についてのレポート。結論として、大統領は違法な尋問行為を許可する権限がある、という結論を出している。(この結論に関して議論しているブログはこちら。)
以前から、同時多発テロ以来、ホワイトハウスか政権上層部から、捕虜に対する尋問を厳しくする指示が出され、多少違法なことをしてもよいという許可が出ていたというレポートがあったが、この文書はそれを裏付けることになる。このメモの公表を受け、今日の公聴会でアシュクロフト司法長官は「ホワイトハウスは拷問を認めていない」と必死で反論している。
 アメリカのニュース番組はレーガン大統領死去の弔意ムードで一色だが、これはブッシュ大統領にとっては、ひとつ間違うと致命的な展開になりうる。あの虐待が政権上層部からの具体的な指示で許可されているとなったら、大統領側の「あれは一部の兵隊が勝手にやったこと」という言い訳が通用しなくなるからだ。
 この虐待事件、対アラブ外交的にも、「われわれが生きている間には修復不可能」(元軍関係者)なダメージを与えたが、それ以上に、アメリカ国民のアイデンティティに関わる問題なのである。アメリカ人の多くは、アメリカという国は軍事力による超大国ではなく、世界に自由をもたらす道徳的なリーダーと信じている。虐待事件はそのアイデンティティの部分に深い傷を与えてしまった。一部の世論調査では、本来ブッシュ氏支持で堅いはずの保守層でもブッシュ大統領の支持率が落ちてきているというが、この事件の影響が何よりも大きいだろう。ノルマンディーでの米仏会談、政権委譲の国連安保理事会の決議、またG8サミットと、ブッシュ大統領としては外交の成果が大きかった1週間だし、イラク情勢も次期首相が表に出てきて政権委譲のプロセスが着々と進んでいるのだが、この捕虜問題はどのような影響があるのだろうか。

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June 08, 2004

【NYT】アメリカ政治は部族社会

アメリカは今年が大統領選挙の年ということで、メディアも国内外の情勢が各候補の支持にどうつながるか注目して世論調査を発表したりしている。イラク情勢は予断を許さないし、国内でも失業率がなかなか改善しなかったりガソリンの値段が上がったりと、政権の支持率に影響を及ぼしそうな事件が多く起こっている。しかし、その割に世論調査の数値は動かない。ブッシュ氏とケリー氏の支持率が共に40%前後で「接戦」を演じ、第三党候補のネーダー氏が一桁。もちろんアメリカの大統領は選挙人の総数で決まるから、選挙の勝ち負けを知るには個々の州(特に"swing states"と呼ばれる接戦の州)の情勢を分析すべきなのだが、国民の支持傾向という面で全国の支持率を見ると、大事件があってもあまり変化がない。
この点について、デーヴィッド・ブルックスがNYTのコラム(6月5日付)で面白い論を展開している。最近の政治学の研究によると、アメリカ人は一般に若い頃の支持政党を一生変えないということらしい。普通、親が支持していた政党の支持者になり、ウォーターゲート事件などの大事件があっても支持政党を変えない。つまり、自分の政治思想に合った政党を支持するのではなく、とりあえず「自分と似たような人々」が所属している政党に自分も属し、その政党が喧伝する政治思想を信奉するようになるという。アメリカでの政党は、同じ政治思想を持つ人々の集まりではなく、むしろ一種のクラブのようなものだというのだ。

さらに、一度そのクラブに属してしまうと、自分の属するクラブに都合の良いフィルターを通して現実を見るようになってしまうと言う。ブルックスは次のようなデータを紹介している。1988年、レーガン政権が終わったとき、インフレ率が下がったかどうかを有権者に聞いた。実際は下がった(13.5%→4.1%)のだが、民主党の熱烈な支持者のうち「下がった」と答えたのはわずか8%にすぎず、50%は「上がった」と答えた。民主党員は、経済が悪化しているという先入観のため現実を見る目が曇っていたというわけだ。一方、共和党支持者のうち「下がった」と答えたのは47%と、現実を冷静に見ていた。しかし、クリントン政権の末期に同じようなアンケートを採ったところ、今度は共和党員が経済情勢を否定的に曲解していたということだ。

ブルックスはこのような状況を指して、アメリカ政治の状況を「部族社会」と呼んでいる。こう考えると、世論調査を取っても数字がほとんど変わらない現状がうまく説明できる。ブッシュ大統領の支持者は、昔から共和党員であり、共和党的世界観でニュースを見ているから、ブッシュ氏支持はそう簡単にはゆるがないというわけだ。民主党側も状況はあまり変わらない。さらに、ブッシュ氏は、イラク政策にせよ、国内政策にせよ、アメリカ全体よりも自分の支持層に向けた政策を取り続けているというのがもっぱらの評判だ。ブッシュ氏の演説を聞いていても、舞台がどこであれ、聴衆が誰であれ、アメリカ国民の40%の自分の支持者に語りかけているという感じがする。共和党支持層は「自分の仲間」という意識を強めるし、民主党支持層はブッシュ氏への嫌悪感を強める。そんなわけで、11月の投票までに何が起ころうと、政党支持が二極化している現状が変わらない限りこのまま接戦が続くだろう。

次の選挙の結果はともかく、このように国内が二極化している状況は気になる。自分の意見に反対する人々を議論を通して理性的に説得できる可能性が低いという現実が、なにをやっても無駄という雰囲気を生み始めている気がする。こうした現状は非常に困ったものだと思うのだ。

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June 04, 2004

フィリバスター

参議院での年金法案可決のニュースで、民主党の議員がフィリバスターをしている場面が映し出された。フィリバスターとは、長時間の演説によって議事進行を遅らせ、採決を妨害する行為である。これを見て思い出したのが、『スミス氏都へ行く』。主人公のスミス氏が延々と演説を続けて、最後には上院の議員たちを説得してしまうシーンがある。(この場面についてよくまとめてあるサイトはこちら。音声ファイルも聞ける。)
こういうのはいかにも議会民主主義という感じがしていいなあと思う。

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ケリーの北朝鮮政策

North Korea Zoneに、ケリーが大統領になった場合の対北朝鮮政策について興味深い記事が載っている。
ポイントをまとめると、
○実質的な政策としては、「完全かつ検証可能な非核化」を掲げており、ブッシュ政権とあまり変わりがない。しかし、交渉「スタイル」では変化の可能性があり。6カ国交渉ではなく、直接交渉にも積極的である。
○朝鮮半島の非核化がアメリカの一番の国益であり、これに賛成しない近隣諸国はない(少なくとも表立っては反対しない)のだが、それぞれの国の国益は大きく異なる。特に、韓国・中国・ロシアは、北朝鮮が崩壊しないことが一番の関心事である。ゆえに、アメリカと他の国々では問題の優先順位が異なるということは変わらないから、ケリー政権も難しい舵取りを迫られる。
○アメリカの外交努力の成果は、中国や韓国の協力をどれだけ得られるかにかかっている。とくに、現在米韓関係は冷え込んでいるが、韓国の協力は不可欠である。

ケリー政権がどんな政策をとるかについては前にも書いたが、外交政策についてはだいぶ見通しがはっきりしてきた。ケリー氏は「対テロ戦争」を戦うという基本的姿勢を維持するということは明言しているから、その点での大幅な軌道変更はないと思われる。それに、国際関係の現状が変わらない限りアメリカのオプションはあまり多くないようだ。

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「日本の民主主義は未成熟」とか言うのやめませんか

イラク日本人人質事件やイラク戦争についての日本の論客の議論を見ていてひとつ気がついたことがある。例えば、宮台真司氏の「自己責任」論批判(右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり、Miyadai.com blog)。彼は、議論の出発点として次のように言う。

■政府組織や軍隊に先立って非政府組織(NGO)が現地活動するのは国際常識。この者たちの命を危険に晒すのが所属国の出兵だというのも国際常識。それを知りつつあえて出兵した「国民的決定の自己責任」が問われるのも国際常識。

宮台氏はこれらのポイントが「国際常識」というが、果たしてそうだろうか。たとえば、「国民的決定の自己責任」というが、このような用語が「国際常識」となっているとは寡聞にして知らない。そもそも、「自己責任」という用語も実に英語になりにくい用語なのだが、宮台氏がそこを出発点にして、対外政策を行う国家、あるいは国家の主権者たる国民の責任を問おうとしているので、議論がねじれてしまっているのだろう。簡単に言い換えれば、「イラクで人質事件が起こるのは日本国政府がイラクに派兵したため」ということを言いたいんだと思う。確かに、現在のイラクの混乱を見て、テロリストやイラク人反乱組織だけでなく、そもそもイラクに出兵したアメリカ政府(やアメリカに協力した政府)の外交的・軍事的責任を問うことは正当だが、そのような政治責任論だけで人質事件を割り切れるはずがないということがむしろ「国際常識」なのではないだろうか。(むしろ、「人質事件」のマイナスの影響は「イラク戦後処理の失敗の可能性」によるマイナスの影響に比べたら極小さいのだから、ここにはある種の議論の転倒がある。)宮台氏はこの後で、『「国民的決定の自己責任が問われる」の意味が日本人には分からないだろう。ここでの焦点は「立場可換の想像力」だ』と書いている。これも気持ちはわかるが、「立場可換の想像力」は、「国民的決定の自己責任」が問われるべき理由ではない。(「ここでの焦点は」というのはなかなか便利な言い方だが、議論の論理をはぐらかしているだけ。)

宮台氏のレトリックで問題なのは、「国際常識」というものを持ち出して議論を封じる安易さである。「国際常識」というが、その主体は何だろうか? イラク戦争に反対するヨーロッパの世論? 欧米のマスコミ? あるいは外交官のコミュニティ? 現在の「国際社会」は、「国際常識」というものが共有されず、むしろルールが事後的に作られていく集合体ではないのか。(こんなことは社会学者の宮台氏には釈迦に説法なのは承知の上で。)マスコミにしても、私のニューヨークタイムズ批判を見てもらえばわかるが、ニューヨークタイムズの記事だって、ある記者が自分の訓練・思想背景を土台に書いて、ニューヨークタイムズ社内部の編集過程を通して公にされたという意味では、他の新聞となにも変わりがなく、「国際常識」などといって神聖視すべきものでは決してない。宮台氏の文章全体を読むと、上の引用は、「国際常識」を疑う契機ではなく、むしろ「これは国際常識ですよ!」と(国内の)反論する人々を口封じする、使い古されたレトリックである。宮台氏ほど著名な論客がいまどきこのような論法を使っているというのは困ったものだ。

私が一番問題にしたいのは、宮台氏の言説の根本にある、日本は遅れた社会(「民度が低い」)であり、欧米のように「近代化」しなければならないという枠組みである。この枠組みは宮台氏に限ったことではなく、たとえば「Letter from Yochomachi」の散人氏が小泉首相のイラク出兵の政治責任が問われないことについて「小泉首相の責任は追及されるべきだ。それができないのであれば、日本の民主主義はまだまだ未成熟であると云わざるを得ない。」などとあっさり言い切ってしまうことにも現れている。確かに、小泉首相や彼を選んだ国民に対する、イラク政策についての「自己責任」は問われるべき政治的問題の一つではあるだろう。だからといって、それが問われないことを「民度が低い」とか「日本の民主主義はまだまだ未成熟」とか言うのも今更という気がする。

戦後、日本が戦争に敗れた原因について「日本の民主化・近代化は歪んでいた」と多くの知識人が考え、「民主的」思想を日本に移植しようとした。その結果は、60年近く立った今も同じようなスローガンが繰り返される現実を見れば明らかだろう。しかし、私は「民主化・近代化」が失敗したと考えるのではなく、そもそも欧米の歴史に根ざした理論をもとにして「民主化・近代化」の達成度を測定するという思想的枠組みが破綻しているのではないかと思う。歴史家でポストコロニアル論の理論家であるディペシュ・チャクラバーティは、"Provincializing Europe"という本で、断片的な現在を近代化という時間軸で全体化し、近代化(=西洋化)にあてはまらないものを「まだそうでない(not yet)」としか理解できない見方を「歴史主義」と呼んで批判している。西洋から生まれた哲学・批評理論は、非西洋の現代社会を理解するために不可欠だが、また不十分なものなのである。「民度が低い」とか「日本の民主主義はまだまだ未成熟である」とかいう言い方は、まさにこの「歴史主義」の罠にはまっている。そんな言い方で自分の見解を自己弁護するのではなく、もっと多様な現実を見つめませんか。

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(2006年5月 むなぐるま管理人からの受託により保管)

ウェブログ図書館 http://library.jienology.com/