「日本の民主主義は未成熟」とか言うのやめませんか
イラク日本人人質事件やイラク戦争についての日本の論客の議論を見ていてひとつ気がついたことがある。例えば、宮台真司氏の「自己責任」論批判(右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり、Miyadai.com blog)。彼は、議論の出発点として次のように言う。
■政府組織や軍隊に先立って非政府組織(NGO)が現地活動するのは国際常識。この者たちの命を危険に晒すのが所属国の出兵だというのも国際常識。それを知りつつあえて出兵した「国民的決定の自己責任」が問われるのも国際常識。
宮台氏はこれらのポイントが「国際常識」というが、果たしてそうだろうか。たとえば、「国民的決定の自己責任」というが、このような用語が「国際常識」となっているとは寡聞にして知らない。そもそも、「自己責任」という用語も実に英語になりにくい用語なのだが、宮台氏がそこを出発点にして、対外政策を行う国家、あるいは国家の主権者たる国民の責任を問おうとしているので、議論がねじれてしまっているのだろう。簡単に言い換えれば、「イラクで人質事件が起こるのは日本国政府がイラクに派兵したため」ということを言いたいんだと思う。確かに、現在のイラクの混乱を見て、テロリストやイラク人反乱組織だけでなく、そもそもイラクに出兵したアメリカ政府(やアメリカに協力した政府)の外交的・軍事的責任を問うことは正当だが、そのような政治責任論だけで人質事件を割り切れるはずがないということがむしろ「国際常識」なのではないだろうか。(むしろ、「人質事件」のマイナスの影響は「イラク戦後処理の失敗の可能性」によるマイナスの影響に比べたら極小さいのだから、ここにはある種の議論の転倒がある。)宮台氏はこの後で、『「国民的決定の自己責任が問われる」の意味が日本人には分からないだろう。ここでの焦点は「立場可換の想像力」だ』と書いている。これも気持ちはわかるが、「立場可換の想像力」は、「国民的決定の自己責任」が問われるべき理由ではない。(「ここでの焦点は」というのはなかなか便利な言い方だが、議論の論理をはぐらかしているだけ。)
宮台氏のレトリックで問題なのは、「国際常識」というものを持ち出して議論を封じる安易さである。「国際常識」というが、その主体は何だろうか? イラク戦争に反対するヨーロッパの世論? 欧米のマスコミ? あるいは外交官のコミュニティ? 現在の「国際社会」は、「国際常識」というものが共有されず、むしろルールが事後的に作られていく集合体ではないのか。(こんなことは社会学者の宮台氏には釈迦に説法なのは承知の上で。)マスコミにしても、私のニューヨークタイムズ批判を見てもらえばわかるが、ニューヨークタイムズの記事だって、ある記者が自分の訓練・思想背景を土台に書いて、ニューヨークタイムズ社内部の編集過程を通して公にされたという意味では、他の新聞となにも変わりがなく、「国際常識」などといって神聖視すべきものでは決してない。宮台氏の文章全体を読むと、上の引用は、「国際常識」を疑う契機ではなく、むしろ「これは国際常識ですよ!」と(国内の)反論する人々を口封じする、使い古されたレトリックである。宮台氏ほど著名な論客がいまどきこのような論法を使っているというのは困ったものだ。
私が一番問題にしたいのは、宮台氏の言説の根本にある、日本は遅れた社会(「民度が低い」)であり、欧米のように「近代化」しなければならないという枠組みである。この枠組みは宮台氏に限ったことではなく、たとえば「Letter from Yochomachi」の散人氏が小泉首相のイラク出兵の政治責任が問われないことについて「小泉首相の責任は追及されるべきだ。それができないのであれば、日本の民主主義はまだまだ未成熟であると云わざるを得ない。」などとあっさり言い切ってしまうことにも現れている。確かに、小泉首相や彼を選んだ国民に対する、イラク政策についての「自己責任」は問われるべき政治的問題の一つではあるだろう。だからといって、それが問われないことを「民度が低い」とか「日本の民主主義はまだまだ未成熟」とか言うのも今更という気がする。
戦後、日本が戦争に敗れた原因について「日本の民主化・近代化は歪んでいた」と多くの知識人が考え、「民主的」思想を日本に移植しようとした。その結果は、60年近く立った今も同じようなスローガンが繰り返される現実を見れば明らかだろう。しかし、私は「民主化・近代化」が失敗したと考えるのではなく、そもそも欧米の歴史に根ざした理論をもとにして「民主化・近代化」の達成度を測定するという思想的枠組みが破綻しているのではないかと思う。歴史家でポストコロニアル論の理論家であるディペシュ・チャクラバーティは、"Provincializing Europe"という本で、断片的な現在を近代化という時間軸で全体化し、近代化(=西洋化)にあてはまらないものを「まだそうでない(not yet)」としか理解できない見方を「歴史主義」と呼んで批判している。西洋から生まれた哲学・批評理論は、非西洋の現代社会を理解するために不可欠だが、また不十分なものなのである。「民度が低い」とか「日本の民主主義はまだまだ未成熟である」とかいう言い方は、まさにこの「歴史主義」の罠にはまっている。そんな言い方で自分の見解を自己弁護するのではなく、もっと多様な現実を見つめませんか。
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Comments
まあ単線的に西欧民主主義(または欧米民主主義)を理想形と置くのもどうかとは思いますが(そもそも、西欧/欧米を一括りにしていいかというのも疑問のあるところではありますが)、
しかしこれまでに
・地域独自の民主主義だの
・地元文化に根ざした民主主義だの
・我が国独自の民主主義だの
・アジア的/アフリカ的民主主義だの
といった美名のもとに主張されて来たものが、大抵は
・単なる開発独裁とか
・地域/部族的な利益集団による独裁の正当化とか
・旧弊な君主主義の擁護論とか
・宗教的戒律に基く圧制の正当化とか
・前衛党独裁の隠れ蓑とか
に過ぎないものであって、
自立した個人一般の全人的能力の制約少なき発露を実現しうる政治体制を良しと見る視点を評価基準に持つ小生などからすると
西欧民主主義を一次元的基準にした方がよっぽどマシ
な場合が往々にしてあると思うのですが、いかがでしょう?
それとも小生の預かり知らぬところで近代民主主義に対抗しうる新しい東洋的民主主義思想というものが勃興しつつあるのかな?
ちなみに日本文化の研究者たるむなぐるま氏としては、日本固有の成熟した民主主義の理想形について、直観的にどのような性格を具備していると推測しておられますか?
Posted by: 内藤 | Jun 6, 2004 9:37:51 AM
内藤様
一言申し上げます。
> 自立した個人一般の全人的能力の制約少なき発露を実現しうる政治体制を良しと見る視点を評価基準に持つ小生などからすると…
とおっしゃるられるということは、どういう政治体制を良しとされるのでしょうか。古典的自由主義なのでしょうか、それとも古典的共産主義なのでしょうか。
> ・地域独自の民主主義だの
・地元文化に根ざした民主主義だの
・我が国独自の民主主義だの
・アジア的/アフリカ的民主主義だの
といった美名のもとに主張されて来た…
以上の指摘に関しては、日本はどこにも当てはまらないと思います。そういう批判があっても我々の先人は基本的にはそういう言い訳をしなかった国だったと思います。(もちろんそういう主張をした人たちはいました。アジア主義などはその典型だと思います。)
極論しますが、「日本の民主主義が未成熟」だとするなら、この地球上に民主主義国家などあるのだろうかと思います。別にこれは今の日本の現状の政治や政治体制が立派だと居直っているわけではありません。
それから、「西欧/欧米」と書かれていますが、ヨーロッパ/アメリカということですよね。アメリカ民主主義の異質性に関してはトクヴィルの著作以来多くの指摘があると思います。
雑駁なことを申し上げ、失礼しました。
Posted by: I love さぬきうどん | Jun 6, 2004 10:19:05 AM
>内藤様、さぬきうどん様
今回私がこのような論を書いたのは、たとえば宮台氏のような論客が「国際常識では…」などと言って自論を正当化しているのを見て、おかしいというか滑稽だなあと思ったのが始まりです。(最近、日本で「国際常識」というとアメリカが除外されることが多いようですが。)宮台氏の上の引用部分などは、結構乱暴な議論でいくらでもツッコミようがありますよね。だから、「国際常識」などと誰かが言い出したら少し疑ってみましょう、ということなんです。
(私も米国留学したばかりのころ、一時帰国しては「アメリカでは…」などと言っては日本社会を批判ばかりしていたころがありました。そういうのは鼻持ちならないし役にも立たないとわかったのはずいぶん経ってからです。)
そんなわけで、私の議論は別に非人道的な政権や政策を擁護するのが目的ではありません。ただ、我々の思考のクセとして、日本の事象と欧米の事象を比較して「遅れている」とか「未成熟」とか考えてしまうことは結構ありますよね。それを疑い出すと、自分のスタンスがわかってけっこう面白いとは思います。例えば、日本で小泉首相が人気があるから「日本の民主主義は未成熟」などとは言いたくないと思いますが、「男は刃物、女は放火」などという某閣僚の発言を聞くと自分には「アホか」としか思えません。では、日本の民主主義は「遅れている」のでしょうか?
例えば、日本の55年体制についても、政権交代がなかったから民主主義ではないと言えるでしょうか。現在は耐用年数がとっくに過ぎている制度ではありますが、選挙を通して民意が政策に反映するという意味では、戦後の一時期にはかなり有効に機能していたといえるのではないでしょうか。公害問題の対応や、「差別」への対応なども、賛否両論、長所短所はあるでしょうが、日本の方がアメリカなどよりも実利を挙げている部分もあるといえます。欧米と違うからといって自動的に「遅れている」と言ってばかりいても仕方ない、というわけです。
ちなみに、内藤さんの理想の政治形態という、
>自立した個人一般の全人的能力の制約少なき発露を実現しうる政治体制
というと、小さい政府の極限形、リバタリアニズムを想像します。で、具体的にそんな政体が可能なのかを考えると、どうしてもモンタナ州かどこかに自治区を作って住んでいる民兵(ミリシア)などを想像してしまいます。アメリカ民主主義一般についても、内藤さんの書かれている政体とはほど遠いですし、よく比較に出されるヨーロッパも、歴史があり、さまざまな制約がある上での民主主義な訳ですから、そんなに別格視することはないのではないかと思います。そう考えていくと、さぬきうどんさんの
>極論しますが、「日本の民主主義が未成熟」だとするなら、この地球上に民主主義国家などあるのだろうかと思います。別にこれは今の日本の現状の政治や政治体制が立派だと居直っているわけではありません。
というコメントは実に的確だと思います。
Posted by: むなぐるま | Jun 6, 2004 4:59:35 PM
ちなみに、本論で少しだけ紹介したチャクラバルティはこの問題をもう少し緻密に議論しています。こちらの方が有益だったかなと思うので、もう少ししたら別のコラムで補足しようと思います。
Posted by: むなぐるま | Jun 6, 2004 5:05:03 PM
むなぐるまさん、こんにちわ、
続けてコメントを失礼いたします。非常にクリアな視点をいただきありがとうございます。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の最後に出てくる「幌馬車の列」という例えを読んだときから持っていた違和感が少々解消された想いです。
恐縮ですが、「敗北を抱きしめて」の私の拙い感想文で本記事を「参照」させていただきました。
Posted by: ひでき | Sep 26, 2004 12:40:30 AM
>ひできさん
「敗北を抱きしめて」の感想を読ませて頂きました。(せっかくですのでこちらの記事にもTB送って頂けますか? お願いします。)
このエントリで提起した問題意識とひできさんの感想はかなり重なる部分が多いと思いました。庶民の声を集めた「オーラル・ヒストリー」を書きながら、現在日本で生きている日本人が首をかしげる歴史記述。私もこの本を読んだときに似たような違和感を感じました。実際、この違和感を言語化するにはどうしたらいいのか? とよく考えます。日本の「近代化の優等生」はこの違和感を「前近代的なもの」として切り捨ててきたのではないでしょうか?
Posted by: むなぐるま | Sep 26, 2004 5:26:23 PM
むなぐるまさん、こんにちわ、
お言葉にあまえてさっそくトラックバックさせていただきました。
本当に非常に個人的ですし、本文で「オーラル・ヒストリー」とか書きながら何一つ記録に残せているわけではないのですが、私には私なりに父祖から聞き伝え自分なりにイメージした戦中、戦後があります。途中までこの本はその印象と寄り添う形で進むのですが、どうも途中から「主義主張」が入ってしまったのではないかと感じております。
なにをかくそう「敗戦を抱きしめて」を父祖の伝聞を共有する私のごく回りにいる人間でまわし読みしています(笑)。
Posted by: ひでき | Sep 27, 2004 3:44:16 AM
追記 書き落としてしまいましたが、逆に私の記事にもトラックバックいただけたりするととてもうれしいです。
Posted by: ひでき | Sep 27, 2004 3:45:05 AM
むなぐるまさん、こんばんわ。
一度宮台さんのシンポジウムを聞いたことがあるものです。
それで、どちらかといえば宮台さんは、単線的進歩主義の歴史観をお持ちなのではないでしょうか? 彼はいわゆるポスト・モダン路線とは相性が悪いようです。「近代・西洋は絶対じゃない」ということを、どうもホンネでは認めたくないような……?。
東京に住んでいるわけでもなく、普段は宮台さんのブログやインターネット・ラジオで話を視聴していても、感想は変わりません。
すべての宮台真司の書いたりしゃべったりしたものを見ているわけではないので、不正確かもしれませんが、今のところそう思うのです。多分彼は「日本で生まれ育ったにもかかわらず、これほど西洋近代的に育っている自分(たち)」という自意識が大きいものと思われます(麻布~東大の文化による?)。
一度宮台さんが、彼自身の進歩主義や歴史観について書いたものを見てみたくなりました。
なんだか、漠然とした話になってしまって、すみません。
Posted by: ぱれいしあ | Sep 27, 2004 12:27:45 PM
>歴史家でポストコロニアル論の理論家であるディペシュ・チャクラバーティは、"Provincializing Europe"という本で、断片的な現在を近代化という時間軸で全体化し、近代化(=西洋化)にあてはまらないものを「まだそうでない(not yet)」としか理解できない見方を「歴史主義」と呼んで批判している。
ども。鉄血です。
この文章は非常に興味深いですね。私が考えるに、「近代」というのは二種類あると思うんです。第一に「現実としての近代」。第二は「理念としての近代」。チャクラバーティ氏の指摘は、前者に対する批判だと思うんですが、もし「現実としての近代」を正当化するならば、たとえば「所有権の絶対性」みたいなイデオロギッシュな主張も正当化されてしまうことになる。これは間違った認識なわけで、あくまで近代は「理念的なもの」として捉えなければならないんじゃないかと思うんです。近代ヨーロッパを理想郷と見なす必要はないが、かといって日本の現状を手放しで追認するのもどうかと思います。
Posted by: 鉄血人文主義者 | Oct 23, 2004 5:25:30 AM
未成熟国家・・・韓国、中国は間違いなく未成熟国家で精神的にも日本よりかなり劣っている。おそらく日本の明治のレベル以下であると思われる。物質面からは見えにくいが彼ら自身が劣等感を抱いているのは確かで、その劣等感は事実的には自身の国家レベルを認識しているゆえであろう。同じアジアでもインドの成熟はあまり紹介されていない。
Posted by: TH | Mar 23, 2006 3:58:34 PM