追記:「千夜千冊」について
「千夜千冊」について書いた記事に伊藤さんからコメントを頂いた。松岡氏の経歴について補足があって、少し事情がわかった気がした。この違和感は大事だと思うので、もう少し書く。最初はコメントに書いていたが、独立した記事に移すことにした。
実は、この「千夜千冊」を見つけたのは、「極東ブログ」のfinalventさんの日記で、finalventさんもこの企画にはだいぶ違和感を感じておられるようだ。(ここやここ)昨日の「極東ブログ」の電子書籍についての記事も似たような問題意識だと思う。
finalventさんは松岡氏について、
概ね、誠実な読書家と言って良いのだろうとは思う。これに池澤夏樹を足せば、日本の出版界における知性は概ねカバーされる。と書いておられる。多分私の書こうとしていることとオーバーラップすると思うのだが、すこしずれる部分もあるかもしれない。
だが、そこでスコーンと抜け落ちるのは、まず、オーソドックスな知だ。嫌みに聞こえるかもしれないが、松岡(池澤も)はきちんとしたアカデミックなトレーニングを受けていないのだなと思う。(欧文献を読む訓練もしれないように見える。)
もうひとつは、ある種の本気だ。小林秀雄がXへの手紙で書いたような、成熟の場としての女のにおいが、まるでしない。
この男にとって、女への愛とはなんだったのだろう? そして、その問いがリフレクトされない人生とはなんなのだろう? というか、文学とはなんだろう?
この企画についての自分の立場をもう一度考え直してみたのだが、この企画はやっぱり「緩い」というか、「甘い」と思う。たくさん読んでも、次から次へと消費し、捨てていくような姿勢じゃだめなのではないか。これは、現在の出版界の姿勢に通じるものがあると思う。こんなことを書くと厳しい気がする、こういう企画に対して私が感じている違和感はこれからも大切にしていきたいと思うし、何とか言葉に出来たらと思う。
たとえば、こういうこと。せっかく中沢新一の例が出たので言うと、私も学部生の頃は『バルセロナ・秘数3』とか好きだった。(伊藤さんの言う通り、私もある意味、オウム予備軍の素養を持っていたのかも知れない。)でも、ある時アメリカで人文学を大学院で勉強している年上の方から、「そういうのはゴミだよ」と言われた。(正確な言葉は忘れたが、要するに紙の無駄ということ。)それからすっかり熱が冷めてしまった。が、何年かして、その言葉の意味がわかった気がする。
中沢氏は哲学、現代思想から科学までうまく縫い合わせて(レヴィ=ストロース風に言えばbricolageして)語るのが上手な人だが、言ってみれば風が吹けば飛んでしまうようなものだ。対比して言うなら、欧米の人文学は、個々の人間の体験から石の建築物を建てようとしていると思う。その違いは決定的なもので、何を書くか、何が残っていくかということの指針になると思う。もちろん、ポスト構造主義などの洗礼もあって、《構築》がはやらないのは西洋のアカデミックも同じなのだが、煮詰めるレベルにおいてやはり決定的な差があると思う。
もう一つ例を挙げて言うなら、浅田彰の書いたものは結局欧米圏には翻訳されなかったが、一方、柄谷行人は、「論理が飛躍している」とかいろいろ言われながらも、結局『近代日本文学の起源』から『トランスクリティーク』までいくつか訳が出ている。この違いは大きいと思う。私たちの世代が何か意味がある仕事をしようと思ったら、ニューアカ的なやり方じゃだめだと思う。
しかし、だからといって中沢氏の著作を全否定するつもりはない。最近の中沢氏の著作は読んでいないのでコメントできないが、『フィロソフィア・ヤポニカ』などは読んでみたいと思っている。最近の彼の文芸誌などの発言を読む限りでは、自分の思想とか文体の「日本的」な性質を受け入れた上で、その部分を最大限に伸ばす書き方をしているようだ。それはそれでアリだと思う。
もう一言、私の高校の時の国語の先生が、若いときに読んでおくべき本を聞かれて、『世界文学全集』と答えていたのは至言だと今でも思う。
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» 中沢新一のフォーラム from 中沢新一の研究
中沢新一のフォーラムのご案内です。
○タイトル
遺伝子組換え作物の ―― その萃点を探るための座
○と き
平成17年3月19日(土) 午... [Read More]
Tracked on Mar 3, 2005 7:44:44 AM
Comments
munagurumaさん、はじめまして、おはようございます、
non multa sed multum
って、「多読よりも熟読を」と訳してよいのでしょうか?最近気に入っている言葉です。
Posted by: ひでき | Jun 24, 2004 5:56:41 PM
>ひできさん
はじめまして。うーん、私の書こうとしていたことは「多読」/「熟読」の区別以上の、質的な違いなんですが…。多読も必要なときはありますからね。finalventさんも言っておられますが、この辺りに読書をなぜするか、という本質的な問題があるような気がするのです。
Posted by: むなぐるま | Jun 24, 2004 7:15:53 PM
ついけてない部分もありますが、…
中沢新一氏については、文庫本にもなっていた『雪片曲線論』は、以前、本気で「フラクタル」を自分の地球科学の研究に生かそうと思っていた私としては、とても興味深く読みました。でも、その発明者のマンデルブロをどこもまで本気で読んだか、それを発展させる気で読んだか、自分の著作で引用するために読んだかが違うのだと思います。
ちなみに、「フラクタル」を大学院時代に私に紹介してくれたのは、今岐阜大学教育学部地学科に籍をおいて活躍している川上紳一というやつで、アフリカとかグリーンランドとかオーストラリアをフィールドに活躍しています。『縞々学』とか『全地球凍結』(今、“デイアフタートゥモロー”という映画で出てくるやつです)とかの本を書いてます。
Posted by: 伊藤照雄 | Jun 25, 2004 4:45:21 PM
>伊藤様
すみません。今回の文章は愚痴めいてますので、わかりにくいかもしれませんが…。現代科学と現代思想の橋渡しをしながら新しい分野を開拓するというのは、きちんとやろうと思ったら実にしんどい仕事ですよ。その辺が問題になったソーカル事件というのもありましたねえ。
Posted by: むなぐるま | Jun 25, 2004 10:28:49 PM
むなぐるまさん、こんにちわ、
すみません、直接記事に関係しないことをコメント欄で書いてしまったことを反省しております。たまたま、読書について考えていたときに飛び込んできたラテン語だったので、読書好きに違いないであろうむなぐるまさんにを「発見」して、うれしくなって書いてしまいました。お詫びいたします。
私もかなりいいかげんなことをブログなどで書きつらねておりますので、松岡正剛さんや中澤新一さんを批判することはできないでおります。「お前の文章はなんだ!」と刺されてしまいます。
たしかに、このお二人は「雑誌」向きな言説だなと思います。以前ブルータスで中澤新一さんが宗教学の特集を組んでおられたのは、出色でした。松岡さんもNHK講座のテキストを書かれたのがとてもすばらしい出来だと関心しております。また、自分は文学関係に極端に弱いので「おもかげの国」をテキストにして勉強しようかと考えおております。そう、多少皮肉をこめてたとえれば「蛍雪時代」か「進研ゼミ」で勉強するようなものでしょうか。
そして、むなぐるまさんの記事(article)を読ませていただいて、いま私が感じているのは、アカデミックな価値を持たない書籍や言動はすべて価値がないのだろうか?、という疑問です。
まず、個人的な体験からいけば、「雪片結晶論」は私の行く道を変えております。高校時代に読んだ本書が、理系から文系へ私をころばせ、それこそオームの人がいっぱい出た大学へ私をすすませました。幸い、オームにははまらずにボートにはまったので、難なきを得ましたが、この進路変更がなければいまの自分はいないと思います。いまの自分の100%満足しているわけではないですが、まちがいなく今の自分を作ったひとつの礎石は、「世界文学全集」でもなく、柄谷行人さんでもなく、中沢さんでした。
finalventさんのお立場は、うっすらとですが私にも了解可能なものです。そのお立場から松岡さんの著作を批判されるというのもわかります。
私の立場は、たとえ1ページの雑誌記事でも、「世界文学全集」でも、ブログの記事でも、300文字に満たないお経でも、自分が生きていくために必要ならそれをくらってしまえ、ということだと感じております。
この意味で、最近の私にとって意味のある読書というのは、いま生きるためにファウストを読み返すことでした。ブログで書いたり読んだりすることは、私がこの半年あまりを生き抜くために意味のあることでした。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/05/faust_the_last_.html
そこで、お聞きしたいのは、今回の記事をかかれたむなぐるまさんは、個人としてのむなぐるまさんなのでしょうか?それとも、人文科学研究者としてのむなぐるまさんなのでしょうか?お立場をお聞きしたいと思います。
よく存知上げない方に、このような生意気なことを申し上げるのは、はなはだ失礼なこととは思いますが、どうかお応えいただければ幸甚です。
Posted by: ひでき | Jun 26, 2004 3:04:41 AM
>ひできさま
コメントありがとうございます。秀樹さんのブログのファウストについての記事、興味深く読ませて頂きました。雑誌の記事もお経も人生に意味を与え、また人生を変えてしまう可能性があるという意味では変わりがない、ということはまったく賛成です。松岡氏の記事も、別にでたらめを書いているわけではないし、概して良心的だと思います。それでも、個々のエントリを見ると、肩すかしを食らってしまうような印象はぬぐえないんですよね。特に、自分が好きで一生懸命読んだような本については、「なんでもっと掘り下げないのかな」という不満が残ってしまう。それはもったいないと思ってしまう。一生に何度読んでも、毎回違う意味を引き出せるような本を毎週2、3冊のペースで消化していっても、消化不良になるのは仕方ないのですが、そこからの発展ができないようなフォーマットになっている。でも一番問題なのは、それで満足しているように見える松岡氏の姿勢じゃないかと思うのです。まあ、ないものねだりなんでしょうが。
この記事を書いた自分は個人か人文学者か、というご質問ですが、人文学を学ぶ者として、こういう世界もあるよと言うことを一言書きたいと思ったということで。日本の出版界の立ち位置としては中沢氏のような人はアカデミックと呼ばれると思うんですが、人文学(finalventさんは「古典的」と言ってましたが)的に読む読み方とはすこし違うということを言いたいだけなんです。中沢氏にいちゃもんをつけるのもアンフェアだとは承知しているんですが。あるお酒が「一流」として知られているが、もっとおいしいお酒もあって、一度そういう酒を味わってしまうと前に飲んでたものが色あせてしまうよと言いたい、という感じでしょうか。(そういうことをいう自分は嫌味な奴だなあ、と反省してます。まあ物好きの戯れ言として聞き流して頂ければ。)こういうことも、「ファウスト」を読み返しながら自分の人生に生かしておられるひできさんのような読書人には釈迦に説法とは思いますが。
Posted by: むなぐるま | Jun 26, 2004 8:30:02 AM
むなぐるまさん、おはようございます、
>でも一番問題なのは、それで満足しているように見える松岡氏の姿勢じゃないかと思うのです。
この姿勢の問題は根本的に正しいと私も感じております。もったいないな、と思います。それでも、汲み取るべきところはあるので、私個人としての問題としては、どのように松岡さんの書かれたものを「利用」するか、というところにあると感じます。
ここの立場の差なのだと理解いたしました。
読書を「お酒」にたとえるのは、素晴らしい比喩と思います。あるいは、「麻薬」かと...やったことがないのでわかりませんが、純度の高いものほど高価で、効き目がたしかだとか?
ご旅行の幸いをお祈り申し上げております。
追記 全然話がちがいますが、以前私はDCにおりました。昨晩、お取引さんと会食したときに、その方もほぼ同じ時期にDCにいらっしゃると聞き話がもりあがりました。米国滞在が非常になつかしく感じました。
Posted by: ひでき | Jun 26, 2004 6:11:27 PM
もうお出かけになったでしょうか。とすればお帰りなさいですね。
今回から、“tito”と名のらせていただきます。
話が、すごくおもしろく展開している気がします。これがブログのおもしろさなのですね。
「ソーカル事件」に言及されたので、少しネットで復習を始めたら、新しいサイトも見つけ、勉強になるけど時間かかりそうなので、とりあえずコメントさせていただきます。
《現代科学と現代思想の橋渡しをしながら新しい分野を開拓するというのは、きちんとやろうと思ったら実にしんどい仕事ですよ。》
まったくその通りなのだろうという気がします。そんなことしなきゃいいという意見もあると思いますが、私自身はきちんとやってほしいと思います。少しずれるかもしれませんが、M・ミッチェル・ワールドロップ著『複雑系』でてくるサンタフェ研究所の方々のようなスタンスは、素敵に感じます。
さらにずれるのですが、私は理科の教師として、「科学史」や「科学論」を語りたいという誘惑に駆られたりします。「宗教」に行くか「地球科学」に行くかで悩んだ末の結論で今の職場に来たような人間ですので(ここで、「宗教」といっているのは、人間というものを奥深くから極める道というような意味です)。
最近公立学校が週休二日となり、私立は、土曜に普段と違うメニューを用意するという流れ(「売り物」)があるのですが、私の所でも『土曜特別授業』というのを始めました。
私はそこで、『科学史・科学論』をしたいと思い、少し勉強を始めました。切り口やテーマの設定によっては、その『特別授業』ができるのではないかと思ったのです。
ところが、授業で語ることの10倍ぐらいはストックが必要というところまでは覚悟していたのですが、いざ始めるとそれが100倍ぐらいに広がりそうで … 「科学史」をやると、当然それを作ってきた人々は、キリスト教を中心とする一神教の方々なので、「宗教」の問題も避けられないことは覚悟していたのですが、… 。
まとまらなくてスミマセン。そろそろ、来年度の事を決めなくてはならないのですが、揺れている私です。
Posted by: tito | Jun 27, 2004 3:13:07 AM
>ひできさん
あるものを使おうとするかどうかの違いということですね。わかりました。
DCですか…。一度、桜が満開の頃にポトマックの河畔で日本人の友達と花見をしたことがあります。
>titoさん
複雑系ですか…。確かに、10年ほど前は、現代思想そのものにインパクトを与えるようなものの胎動を感じましたが、今はどうなんですかね。というか、現在の科学のフロンティアはどこにあるのでしょうか。最近はすっかりその辺に疎くなってしまって。
科学史の授業、面白そうですね。科学史の問題というのは、文明の根幹に関わってくる気がします。先日のfinalventさんの日記でも、ヴェーバーやら量子力学のベル定理やらについての議論がありましたね。あの辺は全部つながってると思います。
Posted by: むなぐるま | Jul 8, 2004 11:05:43 PM
ご帰宅後の忙しい中、コメントありがとうございます。
《複雑系》については、ブームが去った中、日本人も含め各研究者はそれぞれ地道に取り組んでいると思います。そもそも、簡単に解決するテーマではないし、そういった問題意識も持って研究を続けることが必要な時代であることは変わりがないと思います。
《現在の科学のフロンティア》については、私の担当教科である「地学」でいえば、惑星探査とかはすごくはおもしろい時代だと思います。火星に、原始的なものでも生物がいたという証拠が見つかれば、《現代思想そのもの》へかどうかわかりませんが、結構インパクトがあるのではないでしょうか。
《現代思想そのものにインパクトを与えるようなもの》としては、最近2冊ほど本を買いました(『気の科学』、『気と気功の科学』)。まだ、拾い読みしかしてませんが、徐々に成果は出ているようで、けっこうおもしろいと思います。オウムで一時、人々が敬遠したこの分野、そろそろ、また素直な目で見られるようになってもいいと思います。しかし、これも《複雑系》と同じで簡単にケリがつくものではないと思います。
《科学史の問題というのは、文明の根幹に関わってくる気がします》。上の事とも関連することですが。まともにやるととても私の手には負えません。
しかし、私の1学年上の人(1975年高校卒)の人の「地学」の教科書には、大陸が移動するなんて一言も出てなかったのに、近年はそれが小学校の国語の教科書にさえ出ていてるというような、「パラダイム・シフト」の実例ぐらいは、教えたいと思っています。これは、普段の授業にも、もう少し取り入れています。科学史と宗教の関係の話題も少しは触れていますが、それを中心テーマに据えてしまいますと大変重いです。
まとまりませんが、とりあえず失礼します。
Posted by: tito | Jul 9, 2004 3:52:06 PM
現代思想と科学史の件ですが、やはりソーカル事件のインパクトが相当大きかったように思います。あれから、人文系の学者がうかつに量子力学やら数学の理論を持ち出すのはほとんど見なくなりました。科学史も、地道にこつこつやってるという感じです。
惑星探査は面白いですね。今年の初め、ブッシュ大統領が宇宙開発の再開を支持する声明を出しましたが、あまり評判がよくなかったですね。米国がテロ戦争に巻き込まれていなかったらもう少し違うんでしょうが。
Posted by: むなぐるま | Jul 10, 2004 2:07:13 PM
オーソドックスな知?
アカデミックなトレーニング?
ある種の本気。。
過去のコメントとはいえ、重いし愚鈍ですね。
この文章を書かれた方がこの時点より成長されてることを
祈るのみです。
ただし
「これに池澤夏樹を足せば、日本の出版界における知性は概ねカバーされる。」
っていうフレーズは少しだけまともです。
Posted by: ariel | Oct 8, 2005 5:37:32 AM