むなぐるま

アメリカ在住の研究者(の卵)による日常観察・オピニオン系Blog

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June 22, 2004

「松岡正剛の千夜千冊」

数日前から右手の「メモ」に晒していたんですが、最近こんな企画を発見。

松岡正剛氏は、氏のウェブのプロファイルによると、「メディア界に刺激を与える名編集者で、常に情報文化技術の先端を走る。また、日本文化研究の第一人者で、世代を超えて多くのファンを持つ講義名人」とある。このページを見るまでこの人の仕事については寡聞にして知らなかった。まあ、この人の仕事はともかく、この企画はある書店とタイアップしているようなので、東京で書店に出入りするような人は否応なしに見聞きしているのかも知れない。

このサイトを発見してあちこち斜め読みしながら、何だかなー、とため息をついてしまった。この違和感はうまく言葉になるかどうかわからないのだが、書いてみよう。
毎回、ある本にスポットが当てられ、松岡氏がエッセイを書くという体裁になっているのだが、このエッセイの文章が、一言で言うと「緩い」のである。文体に締まりがないのもそうだが、まずどんな読者層に向けて書かれているかよくわからない。たとえば、鴎外の「阿部一族」のページを見ると、「興津弥五右衛門の遺書」のあらすじを延々と敷衍してあると思えば、鴎外の歴史小説への「転向」と乃木大将の殉死についての教科書的な解説が続く。冗長だなという感想とともに、この筆者はこれだけの労力を費やして何でこの文章を書いているのかなと疑問に思ったりする。こう思うのは自分が知ってる本だからかと思って自分が未読の本をみると、解説部分が少々くどく、核心のところはさらっとスルーしたりしている。例えば、姜尚中の『ナショナリズム』の回では、肝心のポイントについての記述がなく、がっかりさせられた。知ってることはだらだら書いてあるし、知りたいと思うことには切り込んだ跡が見えない。これなら読んだ方が早いな、というのが正直な感想なのである。

そこではっと気がついた。この企画、教養として当然読んでおかなければいけない本への案内ではなく、これらの本を読まなくてもいいように解説してあげましょう、というのが目的なのではないか。「名編集者」たる松岡氏が、忙しい現代人のために「名著」を読んであげましょうという企画なのだ。そう考えるとすべて納得がいく。

しかし、この「読まない人のためのガイド」を眺めていると、本末転倒ではないかという疑問はぬぐえない。読書というのが少しながらも意味を持つのは、これらの本を読みながら少しずつ自分なりの知識なり感覚なりを蓄えていくそのプロセスにある。それは一対一の出会いのようなもので、他の人に代わってもらうことは出来ないものだ。また、他の人の読書体験が参考になるとしたら、それは、その読み手が出会った本の核心部分の問題と格闘して、なにを言えるか、言ったかという面だと思う。この営みが「批評」ならば、このガイドはもとからその役割を果たそうとしていない。

いくつかのエントリを読みながら、松岡氏なりの洞察というか、思いつきというか、そういうのに興味をそそられたことはあった。特に、いくつかの本を通して日本文化とか、日本のナショナリズムについて何度か言及しており、これらの本の議論を縫い合わせながら(もしくは、隙間を縦走しながら)なにか興味深い見解があるのかな、と思わせる部分もある。だが、そういうモチーフも結局はきちんと煮詰められておらず、肩すかしを食らうことが多かった。この文章がどうやって書かれたかをドキュメントしたページを読んでみると、期待したような、思索を煮詰めるような作業はとても無理だとわかる。

何より私が疑問に思うのは、膨大な労力を費やしてこのような毒にも薬にもならない(と言うと言い過ぎだが)ガイドを作るという企画が、出版者らや関連業者の企画会議でどうやって通ったのか、ということだ。一つの答えとしては、本の内容よりも本というモノを欲望してしまう思想フェティッシュ的な傾向があると思う。これは、書き手の問題と言うより、編集者の問題である。たとえば、筒井康隆の『文学部唯野教授』で、脚注に思想家やら書物の名前を続々と並べるような。あの本以来、対談本などにもやたらと細かい脚注を付けた本が増えたが、紙の無駄というか、ペダンチックで嫌味に感じる。その根底には、アカデミックな本でも「売れる」本としてつくらなければならないという現在の日本の出版界の現状があると思う。

「日本の出版界は…」と大上段に構えてみたが、「日本の」出版界を「外」から批判しようというつもりはない。実際、私は半年ほどある中堅の出版社でバイトしていたことがあるので、こういう企画が出てくる内側のメカニズムというのは理解できる気がする。だから致し方ないという気もする。でも何か抗議めいたことを書こうと思ってしまうのだ。

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Listed below are links to weblogs that reference 「松岡正剛の千夜千冊」:

Comments

どうせ職場のページで出てるので、実名のままでコメントさせていただいたのですが、“Recent Comments”の2番目に、自分の名前が出ていて少しギョッとしています。しかし、今さらハンドルネームを考えても仕方がないので 実名で、…

松岡正剛という名前は、自分にとっては意味があります。彼は、「遊」という雑誌を出していた「工作舎」という出版社を立ち上げ、中心的に関わっていた方といっていいのだと思います。

「工作舎」や松岡正剛氏の印象としては、カッコいい雑誌や本を出すなというものです。しかし、いったい何なんだろうという疑問はつきまとっていた気がします。

カッコいいのはいいのですが、「工作舎」は、いわゆる日本の「ニューサイエンス」を主導した本を翻訳出版しており、それらの本は、取り急いで言ってしまえば、「オーム真理教」が発展する下地を作ったともいえると私は認識しています。これは、ほとんど言いがかりに聞こえるかもしれませんが、私個人としては危ない橋を渡った(その流れの中でオームに入っていたかもしれない)と思っているのでそんな言い方になります。そんなこともあり、私の中には「松岡正剛って何?」というような疑問が底流として残っていました。

今回、“むなぐるま”氏が読み解いてくださってなんだか腑に落ちた気がしました。たとえば、

《この「読まない人のためのガイド」を眺めていると、本末転倒ではないかという疑問はぬぐえない。 … 他の人の読書体験が参考になるとしたら、それは、その読み手が出会った本の核心部分の問題と格闘して、なにを言えるか、言ったかという面だと思う。》

という部分です。

ニューサイエンスについては、前に紹介した文章でも書きましたがhttp://www.azabu-jh.ed.jp/の図書館の〈2001年度の衣錦尚絅〉の14号に書いています。オームについては、ネットには出てないのですが、やはりそこでふれた1995年『オウムに行かずに読んだ本』というのを「図書館だより」に載せてます。

私は私なりに《格闘》したつもりなので、恥ずかしながらこんなふうに書いてしまいます。そこで、《なにを言え》たのかはわかりません。《出版界》ではないので、売れる売れないは関係ありませんが、読んでないような顔している生徒がある時、別の質問からそれに触れてきたりすると、書いて良かったんだなと思ったりするのです。

関係ないような個人的な話になってスミマセン。でも、
《このサイトを発見してあちこち斜め読みしながら、何だかなー、とため息をついてしまった。この違和感はうまく言葉になるかどうかわからないのだが、書いてみよう。》という出だしと、

《 … こういう企画が出てくる内側のメカニズムというのは理解できる気がする。だから致し方ないという気もする。でも何か抗議めいたことを書こうと思ってしまうのだ。》という結末になんだかコメントさせていただきたくなり、駄文をつづってしまいました。

Posted by: 伊藤照雄 | Jun 24, 2004 9:22:49 AM

スミマセン、追記です。

この1000冊(現段階では994冊)には読んでない本や作者が多いのですが、979で、好意的に取り上げられている中沢新一は何冊か読みました。

ある坐禅会の帰り、車に乗せてくれたお坊さんが、「オーム」に行った人は、ほとんど中沢新一の『チベットのモーツァルト』を読んでいるんだよねと、にこやかながらも批判的に語っていたのを思い出します。

中沢新一もカッコいいし、西部遭に呼ばれたのに東大教授にはなれなかったけど、出版界では重宝されていらっしゃいますよね。というより、当時東大教授になれなかったこと自体をカッコよく感じてしまった自分です。 …

Posted by: 伊藤照雄 | Jun 24, 2004 10:00:07 AM

むなぐるまさん、こんにちは。はじめまして。
数年、千夜千冊を読んで来た者として、松岡正剛の千夜千冊について、コメントさせてください。合わせて松岡氏の考えについて、個人的見解から、多少説明めいたこともしてみます。

氏は、この企画を独力で(自身のサイトで、無料で閲覧用のコンテンツとして)つくったといいます。別に、どこかに出版の目的が最初からあったわけではないそうです。
また、これはたんなる書評ではなく、「編集」物として読むべきだと思います。
しかし、私が最近やっとわかってきた「編集」という松岡氏の考えは、まだ到底一般的ではありません。新しい言葉にしたほうがよかったのではないか、などと余計なことさえ考える始末です。

「編集」。それを工学化(体系化)したのが松岡氏です。

私は松岡氏が、「編集工学」という「世の中の、人間活動に関するもの・ことのすべてを、情報と編集という2つのキーワードで包括し、再現可能な「はたらき」としての「編集」を体系化した」このことが凄いと、まず思います。

知識を編集する、ではなく、編集を知識にする、というわけです。
知識とは、応用できてこそ定着するもの。であれば、そこに数式のような再現性があるはずだと。知を俯瞰できてこそできる知の「工学化」に、畏怖さえ覚えます。

むなぐるまさんは「編集者」としての松岡氏をあまりうまくとらえていないように思えましたので、僭越ながら少しコメントさせていただきました。 …他意はありません。

ここからは、私個人の千夜千冊の読み方について綴ります。
「編集」のオンパレードとして、私は千夜千冊を読みました。また、松岡氏はかなりのバロックだと思います。その「数寄」感覚を敷衍しているのも、他人(私)にはおもしろかった。仏教や哲学、数学についての読みもかなり深いと見えました。
大事なところを明かさないのは、読み手に対する親切とも思えます。ネタバレギリギリで引いたり、その書物の雰囲気(モード)をうまく模していることや、松岡氏しか語れないエピソードの挟み込み方(方法です)にも感心することもしばしばです。

言葉を、自分の中から取り出すとき、苦労したことがある者としては、あれだけの量のテキスト、つまり書評をウィークデーにほぼ毎日綴る事、何の当てもなく日々言葉を【公式に実名を出して】世間にさらすことを4年も続けられた、というだけでも、尊敬に値する行為だと思います。まして、書物同士、情報同士をあれだけリンクさせる試みを延々続けるのは、並大抵ではできません。書物全般に対する愛情、人間行為に対する慎ましさ、真摯な一途さを私は感じます。
その1000という巨大な数の書物について綴り終え、有志が書物化するというのですから(ふつうに販売されるようです…高価ではありますが)誰が文句をいう筋合いもありませんしね。私も文句ありません。買いたいけど高いな、でも欲しいな、というだけです。
むなぐるまさんの感じた「違和感」、あまりわかりませんでした。ちょっと残念。

オウムとの関連をいうのは、酷な気がします。理由をそこに求めるべきではないでしょう。大学を出たのにちゃんと「読めない」ひとのほうを言及すべきでしょう。「読み方」が問題でしょう。最近多い「ネットが悪いから犯罪が起こる」式の議論の展開だと思います。また、それだけの自由があっていいとも思います。曲解する自由が、残念ながら(残念でもないか)ひとにはある。ただし、ひとの思想のおおもとを語るというのは、とても微妙な問題だろうと思うので、ここではこれ以上言いません。

長々言いましたが、これらは私の個人的な感想です。むなぐるまさんが個人的感想を綴るのが許されるように、私も自分の感想を綴ってみただけです。その点、誤解のなきようにお願いします。仮名なのも、同じ理由によります。ご容赦ください。では。

Posted by: ネーム | Sep 7, 2004 1:11:24 PM

>ネームさん
コメントありがとうございます。

ごらんの通り、ここは私が勝手な感想を述べている個人ブログですので、このようなコメントは大歓迎です。別に私と意見が同じでないからといって遠慮なさる必要は少しもありません。むしろ、コメントやトラックバックを通して多様な意見のネットワークができていくのが、このようなブログの良さだと思っております。

また、コメントから、私の松岡氏の批判がフェアじゃないと思っておられるという印象を受けたのですが、どうでしょうか。
 私は無名の研究者ですし、ここもそれほど影響力もないサイトです。ですが、ある程度のマナーと言いますか、人格攻撃のようなことは避け、あくまでその人が言っている内容についての、フェアな批判を心がけているつもりです。もし私が不当な人格批判をしていると思われたのでしたら、そう指摘して下さって構いません。でも、もし4年間実名で書いているから称賛に値する、といって批判できないんだったら、正統な批判なんてできないと思います。そういう意味で、福田和也氏が『作家の値打ち』である作家に15点とか、「採点不能」とかを連発したのは気持ちよかったですね。
 オウムとの関連ですが、私も「オウムと関係しているから悪」というような批判はあまり意味がないと思っています。アメリカのディベートで相手をナチ呼ばわりしたら負け、という不文律があるそうですが、オウム呼ばわりするのはそれと同等だと思います。また、titoさんのコメントも、そういう意図ではないと思います。

さて、松岡氏の「編集」についての考え方ですが、世の中の人の営みがすべて「情報と編集」で割り切れてしまうというのは、寂しいような気がします。知というものは「工学化」されてはならないし、それで割り切れるものばかりではないと思うのです。「私」の人生は一回しかないし、「私」の考えも体系化、一般化を拒むものがあるはずだと思っています。松岡氏の仕事を私はよく知らないのでこれ以上のコメントは控えますが。

Posted by: むなぐるま | Sep 7, 2004 3:51:17 PM

(2006年5月 むなぐるま管理人からの受託により保管)

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