むなぐるま

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August 14, 2004

福田和也『イデオロギーズ』

読書において、結局は、一生懸命読み込んだものしか自分の身に付かない、と思う。

福田和也氏は「文藝春秋」や「諸君」などに毎月のように寄稿している保守の論客として知られるが、結局は文芸評論家である。「ブンガク」というと揶揄の言葉として使われることもあるが、そういうネガティブな意味も、もちろんポジティブな意味も込めて。彼の最初の著作が、20世紀のフランス文学におけるナチ協力者について書いた『奇妙な廃墟』(未読)であることからもわかる通り、彼の学者としてのトレーニングは20世紀ヨーロッパ文学である。
 私は『甘美な人生』や『現代文学』など、彼の才気溢れる近代日本文学の評論のファンでもある。しかし、彼が20世紀のヨーロッパの文学者・思想家を語るときは、やはり彼が地道に読み込んできた手ごたえを感じる。また、他の分野でも、彼がヨーロッパの反ヒューマニズム思想をよく考えてきた内容がうまくその時の話題と結びついたときはうまくいっていると感じる。このことは彼が保守であることと矛盾しない。彼がこの本でエドムンド・バークについて言っている通り、現代の保守思想というのは、「伝統」を盲目的に受け入れるのではなく、それを意識的に考え抜くところにあるからだ。

 一方、彼の時評家としての立ち位置のためか、最近粗製濫造が目立つとも思う。「ひと月百冊読み、三百枚書く私」などと言って喜んでいる場合ではない。でも、特に『甘美な人生』所収の批評などを知ってしまっている自分としてはつい読んでしまう。「当たり」がないかどうか求めてしまう。

イデオロギーズ
福田 和也
新潮社
2004-05-25


by G-Tools

 そういう意味で、『イデオロギーズ』はまず「当たり」と言っていいと思う。よく言えば、20世紀研究の彼らしい本である。この本では、「テクノロジー」「暴力」「自由」「信仰」「愛」という5つの概念を中心に論が進められる。彼の問題意識は、われわれが現在当たり前のように受け取っているこれらの概念を、ヨーロッパの近代に照らして再考しようということなのだが、面白いのは、近代思想の巨人を考えるのに、20世紀の思想家というレンズを通していること。例えば、「テクノロジー」では、ハンナ・アーレントとアイザイア・バーリンのヴィーコについての論争を枕に論を始めている。ヴィーコを直接論ずるのではなく、あくまでアーレントとバーリンを通して、なのだ。同様に、カントやヘーゲルではなく、ハイデッガーとカッシーラーなのである。もしここでヨーロッパの近代について本格的に考えるのならば、やはりヴィーコそのものを論じないといけないのだろう。また、ここでヨーロッパの思想史について細かく突っ込んでいくと、いろいろあらが見えてくるだろう。(たとえば、「信仰」において、スピノザの宗教史における位置づけを考えるときに『神学・政治論』を抜いてはいけないだろう。)また、テクノロジー論も、緻密に論じていこうとしたら本書に登場する4人の他にも欠かしてはならない人物はまだまだいるだろう。そういう意味では、個々の分野の専門家には物足りないものかも知れない。

 しかし、福田氏の資質というか、トレーニングというか、それはやはり20世紀思想なのだから、ないものねだりをしてはいけない。むしろ、20世紀、それも20世紀前半における思想史のある瞬間を捉えて、問題の在処を明らかにする手さばきは確かなものだと思う。そういう意味で、特に「自由」の章の、カッシーラーとハイデッガーが「対決」するくだりは、若きスターとしてのハイデッガーと没落しゆく何かを代表するカッシーラーの対比、またハイデッガーとナチズムの関連から見直すカッシーラー的なものなど、読み応えがあった。(これを読んで、カッシーラーを読んでみようという気になった。)また、哲学や思想をこれから学びたいと思う人にとって、これらの20世紀の思想家はよい入り口であるとは思う。(もちろん、それは私自身も含めて、なのだが)

 また、この本はいい意味で「批評的」な本でもある。「暴力」の章の初出が『新潮』2001年10月、11月号であることをみてもわかる通り、この一連の評論の背景には9/11後の世界情勢がある。福田氏の議論は、一言で言えば、現在起こっていることは「テクノロジーそれ自体の自己運動、自己発達がもたらすダイナミズム」となる。かれの挑発をどう受け取るかは本書を読んで一人一人が考えることとして、現在の世界を一歩下がって考え直すという意味ではすぐれた「啓蒙書」たりえていることは確かだ。

 本の編集について一言。この脚注はなんとかならないものか。「レーニン」とか「プルースト」とかに註を振るべきではない。当然知っているべきだし、知らなければ恥ずかしく思って哲学・文学事典で調べればいい。こういうのを見ると、ディレッタンティズムという気がする。日本の出版社がこういうのを始めたのは『文学部唯野教授』あたりからではないだろうか。また、帯には「俊英 酒井信氏による註解付」とあるが、俊英にこういうことをさせてはいけないし、俊英はこういうことをしてはいけない。こういう仕事をしてもキャリアのステップ・アップになるとは思えないのだが…。まあ、これだけの名詞・固有名詞にしっかりした註が付けられる人がいるというのは喜ぶべきことではあるが。

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イデオロギーズ  作者がスタイルを作るのか、それともスタイルが作者を作るのかは知 [Read More]

Tracked on Nov 14, 2004 6:17:25 AM

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