自国の歴史の「切り離し」を生きること
「 連続と切断、内なる歴史をどうするか。」(fenestrae)
fenestraeさんのブログで私の南京事件についてのエントリについてコメントを頂いた。そこからリンクされている「過ぎ去ろうとしない過去」のエントリなども含めて、特に欧州における史観論争についての歴史的経緯が精確に提示されていて、勉強になった。(私もブログとはいえもう少し緻密に書こうかと反省している。)あまり時間がないので簡単になってしまうが、これらのエントリを読んで思ったことを書きたいと思う。【註:少しあわてて書いたので、後で読み直して修正するかもしれません。まあ、はやくお返事したかったから、ということでご寛恕を。】
まず、歴史問題の扱いについて北米と欧州は区別して考えるべきというのは、おっしゃる通りだと思う。ドイツのシュレーダー首相が昨夏ワルシャワでした演説というのは、確かに日本の対中国の関係やアメリカの対ベトナムに置き換えて想像してみると、かなり踏み込んだ発言ではあると思う。日本の対外関係を日米関係中心に見ることに関しては注意すべきだと私も思っているので、その点については訂正します。
で、「欧米の「戦争責任」論を日本がそのまま受け入れることは、そのような欧米の算段をも一緒に受け入れることだから、そのこと自体も十分に検討する必要があると思う。欧米と日本にギャップがあるとしても、すべて欧米に合わせる必要はないのではないだろうか。」という私の発言についてだが、ここでアメリカとヨーロッパ(fenestraeさんの例では仏独)とを切り離して考えると、
1) (アメリカ)日米関係において「戦争責任」論がアメリカのナショナリズム的な言説にからめ取られてしまうという問題
については、これは主にアメリカの学会・メディア、そして日本側がこれにどう関わるかという問題で、私が前のエントリでも指摘した問題はまだ残ると思う。さて、
2) (仏独)仏独の立てている「過去の清算」についての基準に日本が合わせる必要があるのか。そこに算段はないのか。
という問題については、別の問題なのだが、fenestraeさんの文章を読んで考えさせられたので少し書いてみたい。
fenestraeさんの論考では、この問題について、
ここまでは、戦争で他国を占領し被害を与えた当事国の旧敵国との関係を念頭に置い書いてきた。が、実のところは、日本の戦争犯罪の問題、戦争に至るあるいは戦争中の体制のありかたやその中での日本人の行動についての評価、自らの過去を現在われわれがどう評価するかという問題は、むしろ他者との関係よりも自らの問題として考えるべきだと基本的には思っている。
と述べ、さらに、id:jounoさんの
「戦争の主体として大日本帝国を、現在の日本国家のアイデンティティから批判的に他者として切り離し、その連続性を断つということが問われているのだろう」
という意見に賛同しておられる。私も、南京事件の日本国内の事実論争は、たしかにこの「切り離し」をできるかどうかについての代理戦争なのではないかという意味では賛成する。
しかし、ここで、この「切り離し」をあらゆる犠牲を伴っても強い意志を持って推し進めていくかどうか、という点には議論の余地があるように思われる。言い換えれば、「このような断絶を思想的、制度的に選択することは、民族的、文化的、倫理的な連続性と矛盾するものではない」ということについて、果してそうなのか。fenestraeさんはこの二つを両立することの難しさを認識しつつも、これを断固として機能させていく意志をもつかどうか、が判断基準になると考えていると思われる。一方、日本の保守派の人々にとっては、たとえば大日本帝国を断罪し、現在の日本国家のアイデンティティから切り離すことによって失われるものは大きすぎるから譲れないのだ、と考えているのだと思う。
この意味で、fenestraeさんがデリダの赦しについての文章を引かれているのは面白い。デリダのように、過去の言論の枠組を批判しながらもユニバーサルな言説の共通了解事項を仮定し、またなければ求めていこうという考え方と、そのような「共通了解事項」にまぎれこむ、「多様性」を抑圧するものを批判する考え方が対比されている。デリダの文章が手元にないので読んでから検討したいのだが、少なくともデリダを援用する者、また、後者の立場からポストコロニアリズムの批評家などを援用する者の間では立場の違いがある。fenestraeさんの文章を読んで、私の中ではこのあたりの問題のありかが鮮明になった。たぶん、fenestraeさんと私の立場のちがいはここにあるのだと思う。
ここからは印象批評なのだが、この「切り離し」ができるかどうか、という問題には、多分に個人差があるような気がする。というか、「日本人」の中にも、いろいろな存在のありかたが共存しているというのが実態だと思う。日本人全体に「切り離し」を求める人々は、もうすでに切り離しができてしまっているのではないかと思う。いっぽう、私はどちらかというと、この「切り離し」という事態を実際にやろうとすると自分の生活世界が根本的に変わってしまう、と考える人に共感してしまう。これは理論と言うよりは感情的なものなので仕方ない。こう書くと私があたかも時代遅れの歴史修正主義者のように思われてしまうとしたらそれは残念なことだ。
たとえばこう考えてみてはどうか。「戦前的なもの」というのは、単に思念的なものではなく、われわれの生活世界の行動とか習慣に深く根ざしている。たとえば、唱歌を聴いたらほっとする、とか、正月はやっぱり神社で初詣したい、とか。この文脈で、「戦前的なもの」との「切り離し」というのをどこまで考えるのか。別の視点から言えば、そうした日常の習慣に「政治的なもの」が食い込んでいるとしたら、それを完全に抜き去ったままで「生活」が成り立つのか。また、今までと同じとはいわなくても、新しい世界に生きる喜びが「喪失」感覚を上回るようなことができるのか。これは決して頭の中での史観問題ではない。「切り離し」を断固行うべき、と考える人々は、もしこの「切り離し」が起こった後の世界を具体的に想像できるような仕事をしてほしいと思う。
一方、決定的な「切り離し」を行わずに倫理的な立場を取ることは可能なのだろうか。私には、その可能性も考え尽くされていないように思う。そのためには、結局ヨーロッパの思想のあり方も批判して、ヨーロッパも変わらなければいけないと思う。つまり、ヨーロッパ生まれの社会思想が、一度その歴史から切断されなければいけないと考えている。
もうひとつ。このテの議論をすると、どうしても同じ意見の人々の意見を好んで聴き、違う意見の人を敵視しがちなのだが、二つの立場に共通点がなくても、その間をつなぐ言葉を創る努力は惜しんではならない思う。なんだか考えがまとまらないのだが、矛盾のなかで生きることを可能にするのはやはり言葉だけなのだから、対話が困難な状況でも対話のチャンネルは開いていたいと思う。これは自分自身への覚え書き。
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Tracked on Oct 30, 2004 6:53:11 AM
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Tracked on Nov 1, 2004 6:42:23 AM
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