むなぐるま

アメリカ在住の研究者(の卵)による日常観察・オピニオン系Blog

« November 2004 | Main | January 2005 »

December 28, 2004

Amazon.comでインド洋津波救援金を受付

アメリカ赤十字社がamazon.comのオンライン決済を利用してインド洋津波の救援金を受け付けています。(via instapundit) このサイトで面白いのは、救援金総額がリアルタイムで表示されること。今のところ、1時間に10万ドルくらいづつ増えている模様。
日本の方はこちらから。(via: kagamiさん

今回の事件は想像を絶するレートで死者数が増大しており、これからも伝染病・水の汚染などによる二次災害が懸念されています。アメリカでも、ニュース番組などでその被害の大きさが連日伝えられています。何か出来ることは…と考えさせられます。

| | Comments (1) | TrackBack

December 27, 2004

自分の思考の地平を広げるって難しいですね

この前のエントリで、私のお薦めブログをご紹介したところ、「複雑な心境に」なったというトラックバックが。まあ、この前ご紹介したブログの皆さんからはおおむね好意的な反応をいただいていたが、馴れ合いのためのエントリじゃない? と思われても仕方ないかも。まあたまには馴れ合いエントリも、という気持ちもあったわけだが、不快に思われる方がいるのも、わかる。

で、この前のエントリの結論として、「毎日同じブログを巡回されることの多い方は、読むサイトの幅を広げてみては?」と書いたわけだが、その背景には、政治・時事系ブログでよく言われる「反響室効果 (echo chamber effect)」の防止を、という気持ちがあった。

echo chamber effect というのは、政治関係のメディアにおいて、保守系は保守系で、リベラル系はリベラル系で、と、似たような思想のメディア間で限られた情報が高速に伝わり、反響しあうことによって、反対意見に目を触れることなく偏ったニュース・意見・思想が強化されていく、という効果のこと。これはブログに限らず、ケーブルTVやトークラジオなどのメディアも含めての現象。

たとえば、「ケリー大統領候補は意見をコロコロ変える(flip-flopする)」という見方がある。ケリー氏は、今回の選挙戦の最後までこのイメージを払拭できなかったのが敗因の一つといわれるが、この見方、ある程度は正しいといえるものの、ある意味ではおかしいといえる。政治家というのは、その時の現実を見極め、時には自らの信念を曲げてもその時にベストの政策を実行すべきだからだ。事実、ブッシュ氏も4年間の任期中、政策転換を数多くしてきた。そのうちの最大のものは、2000年の大統領討論で「nation-buildingはしない」と言った孤立主義から、「自由を世界に広げる」ための積極的な干渉外交への転換だろう。

このイメージの形成におけるメディアの役割は大きかった。ブッシュ選対は、ある時期から、ケリー氏は「意見をコロコロ変える」というポイントをあらゆるチャンネルを使って強調した。保守系コラムニストや選対・政府関係者がことあるごとにこの意見を口にする。それを、Fox Newsや、保守系トークラジオなどが繰り返し放送し、論評する。そして、CNNなどの中道・あるいは中道左派のメディアが後追い報道をする。こうして、短期間のうちに、多くのメディアが「ケリー氏は意見をコロコロ変える」という報道を垂れ流し、その真偽が吟味される間もなく「事実」として定着してしまう。一度そういうイメージが出来るとそれをひっくり返すのは難しい。ハワード・ディーンも、アイオワ党員集会の直後、例の絶叫演説の映像を繰り返し流されて、選挙戦から脱落した。

さて、ブログの役割なのだが、このような「反響室効果」を止めるというよりは、加速する傾向が大きいのでは、と言われている。多くのブロガーは、自分の意見に合わない記事よりは自分の意見に合う記事を紹介する傾向があるのは当然として、そのような似たような思想を持つブログ同士が互いの記事を紹介しあっているうちに、同じようなネタが繰り返されることになる。そして、もしそのようなブログばかり読んでいると、反対意見や自分の思想に合わないニュースが目に触れることなく、自分の思想に合う意見ばかり読むことになりかねない。

アメリカの政治や社会の情勢を見ていると、社会が、興味や価値観を共有する小さなグループに細分化しているという印象を受ける。一昔前のTVのニュースなら、見たいニュースも見たくないニュースも目に入ってくるが、今はネットやらケーブルTVなどで、視聴者の方に情報の選択の余地があり、自分の見たい情報だけ見ていればすむ。また、アメリカに限って言えば、都市・郊外・過疎地でライフスタイルの差異が広がっており、また都市の内部も人種・収入レベル・価値観などによって細分化が進んでいるといわれる。

自分の信念に合うニュースだけ読んでいればいいというのならばそれでもいいが、それはやはり不健全なことなのではないかとも思う。ただでさえ細分化が進む現代の社会において、そのような多様なグループの橋渡しをする対話の可能性がますます減少していることに私は危機感を持つ。究極的に、われわれは一つの世界に住んでいる運命共同体だから、対話せずに生きていくことはできないからだ。この点については、保守派もリベラル派も同様に努力すべきと思うが、特に米大統領選挙後に思うのは、日頃「対話」や「共生」を主張するリベラルの人々が、かえってイデオロギーに凝り固まって対話を拒否しているという現実があるのではないだろうか。(名指しで言うなら、Academia RSS Projectは、"Academia"と言うなら、自分の「正しい」イデオロギーに合う情報・エントリだけを紹介するのではなく、違う思想・イデオロギーの対話を促進する情報・エントリを紹介するようもっと努力すべきだと強く思う。まあ、そういう目的でやってるわけではないのなら仕方ないが。)それは、自分の意見・主張を捨てることでは決してない。私のブログも、「主張」という意味では、少し読めばわかるように書いている。自分の立場を認めてもらうために、また違う主張の人々と共に生きる権利を認めあうためにこそ、対話の言葉が必要とされているのだ。

さて、こんなメディアの現状の中、それぞれのブロガーも自分とは違う意見に耳を傾ける努力が必要だと思うし、同じ傾向のネタ(例えば政治ネタ)だけでなく、生活のいろんな側面からネタを見つけるべきだとは思う。また、読者の方も、自分とは必ずしも賛成しないブログを意識的に読むようにしたほうがいいと思う。そんなわけで、私のblogrollから、いろんなブログを読んでみてください、と言ってみたわけだ。ま、自分と立場の違う人に向けて書かれているブログ、また、著者と立場の違う人が読んでも理性的な議論として読めるブログ、というのはなかなか少ない。私のブログは取り柄はあまりないのだが、そのようなブログを目指してはいるつもりだ。

しかし、エントリで紹介した4つのブログを振り返って見ると、確かに私が賛成することが多いブログばかり選んでしまったかも。自分とは考えの違うブログを読むというのは、言うは易し、行うは難しということか。やれやれ。でも、blogrollのほうは、右から左まで幅広く選んでいるつもりではある。

とはいえ、このような話も、政治・経済・時事系ブログの中での話。TBを頂いたブログの方には、「Elle Onlineもむなぐるまも同じようにチェックする」というお褒めの言葉(?)をいただいたのだが、そういう意味ではここまでの話も狭い世界の話のように見えると思う。そういう意味では、私の世界がネットからはみ出しているというのは健全な証拠かも、とも思う。まあ、今度は最近よく見るTV番組、Wife Swapについて書こうか。

【追記 12/27】表記をわかりやすくするため多少改めました。

| | Comments (5) | TrackBack

December 25, 2004

The Hookie Awards

拙ブログも今日をもって20万PVを達成致しました。読者の皆さんにはこの場を借りて御礼申し上げます。
4月にTypepadに移転してからの累計ですので、総アクセス数ではR30さんのところとほぼ同規模と言うことになりますか。

さて。

Op-Ed Columnist: The Hookie Awards (NYT)
NYT コラムニストのデーヴィッド・ブルックスが、「2004年に書かれた最も重要なエッセイ」を独断で選んで自分で創った賞 "The Hookie Awards" を贈っています。個々のエッセイには目を通していないのですが、ブルックスのコラムのほうをご紹介。散人先生が「無断転載」しているファローズのエッセイもこの賞の受賞エッセイです。ブルックスらしく、社会における Public intellectual の役割などを力説しておりますが、アメリカの政治・経済・文化エッセイを読むと、「反知性主義の国」というレッテルがいかに表層的なものかを感じさせます。

【追記 12/27】第二弾が出ました。「冬休みの宿題」ということで。

| | Comments (0) | TrackBack

December 21, 2004

更新が遅れている言い訳&最近のブログ界隈の盛り上がりぶり

こんにちは。
最近更新が滞っておりますが、私は元気です。
私の住んでる中西部の街は、ここ数日とても寒いです。半端じゃなく寒い。完全装備しないで一歩でも外に出ると、健康に害を及ぼすかもしれないくらい寒いです。
で、アパートにこもっているのですが、自宅には今はダイアルアップしかないので、ネットサーフィンもなかなかしにくい状況です。それとは別に、リアル生活のほうが忙しい、というか、ネットなんかよりリアルライフのほうが断然エキサイティングな状況です。このままネット卒業(笑)してしまうかもしれません。

それにしても、最近のブログ界隈の盛り上がりには目を見張るものがあります。年末進行のはずなのにも関わらず、読み応えのあるエントリを連発するブロガーたちが、めざましい活躍を見せています。つい1か月前には、切込隊長の言葉で(今辞めたら)「部員が八人しかいない高校野球みたいな雰囲気」になるとか言っていたのがウソみたいですね。ブログはこれからどんどん盛り上がっていくのは間違いないわけで、このまま、ブログがネットだけでなく社会的にも存在感を増していけば、と思います。

ちなみに、私の現在の注目・おすすめブログをご紹介しますと、

などでしょうか。読ませる、そして考えさせられるエントリを連日発信しておられます。それから、英語ブログでは、最近なぜかAlthouseが面白いですね。私は、このブロガー(法学教授)の、地に足のついた現実感覚・バランス感覚が好きです。それから、私のblogroll(ページ右側のブログのリンク)には、著名な評論家からピュア・ブロガーまで、読ませる上質サイトを多く選んでいます。毎日同じブログを巡回されることの多い方は、読むサイトの幅を広げてみては? 

【追記 12/24/04】R30さんは日本のアルファブロガーに立候補されているわけではないとのこと。これは失礼いたしました。(しかし、上でリンクしたエントリでは相当やる気満々だったような…。)まあ、アルファブロガーは名乗るものではなく体現するものでしょうから、このエントリの私の発言は単なる戯言、冷やかしとお受け取りくださいませ。ともあれ、20万PVということもあり、さらにテンションの高い活躍を期待するものではありますが。

| | Comments (0) | TrackBack

December 18, 2004

ブロガーがTime誌 "The Person of the Year" 候補に?

毎年恒例の Time誌 "The Person of the Year" が発表されるのはこちら時間の明日(日曜)なのだが、ブログでも予想が飛び交っている。いくつかの有力ブロガーがリンクしているエントリによると、"The Person of the Year" はジョージ・W・ブッシュ大統領で決定という内部情報がある、とのこと。これだけではインターネット上の噂というレベルであり、その真相はあと1日もすればわかるのだが、もし本当ならば好きと嫌いとにかかわらずまあ妥当なチョイスといえるだろう。

さて、同じエントリで面白いのが、「ブロガー」が候補として真剣に検討された、という点。最終的には却下されたが、ブロガーについて扱った記事が特集号に載るのではないか、とのこと。Instapunditではフォトショップでカバー画像をでっち上げたりしてこの話題を盛り上げていた。もちろん、こういうネタはブロガーが好むところなので、ブログが取り上げやすいということはある。しかし、昨日たまたま見ていたNBCの朝の報道番組 "Today" にTime誌の編集長が登場していたのだが、インタビュアーが「今年はブロガーが活躍した年でしたね」と聞いていたのは、そういう内部の議論を反映したものなのかもしれない。ともあれ、"Time" や "Today" という一般庶民のメディアでBlogという単語が聞かれるようになったということからも、ラザーゲート以来Blogが市民権を得てきた現実が実感を持って感じられる。オンライン版 "Time" にブロガーについての記事が載ったら、このブログからもリンクを張ることにしよう。

【追記 12/19】TimeのPOYが発表されました。予想通り、ブッシュ大統領でしたね。記事はこちら。それから、ブロガー特集があるという予想も当たりました。無料で読めるのは次の記事。このブログで話題にしたブログについても言及されています。

10 Things We Learned About Blogs

| | Comments (0) | TrackBack

December 17, 2004

アメリカ・ニュース番組の偏向度

さて、同じRatherbiased.comに、アメリカのニュース番組の偏見について、興味深い記事があった。ハーバード大学とスタンフォード大学の教授が、上院議員の投票動向の「リベラル度」を計るインデックスを利用して、ニュース番組の保守・リベラル度を測った研究について。(この記事が載ったのは保守(ネオコン)系 "The Weekly Standard" だが、インデックスを計算したのは大学の研究者である)
さて、このインデックス、ADAと呼ばれ、完全な保守なら0、完全なリベラルだったら100となる。上院議員で言うと、リベラルなケリー氏が88、テディ・ケネディ氏が89、保守系のフリスト氏が10、マケイン氏が13、中道のスペクター氏(共和)が51、スノウ氏(共和)が43、リーバーマン氏(民主)が74という得点である。共和党の上院議員の平均が16点、民主党の上院議員の平均が84点となる。
 さて、この得点法で、アメリカのニュース番組、新聞などを採点すると次のようになる。

35 ... Washington Times
40 ... Fox News Special Report with Brit Hume (Fox News)
56 ... The News Hour with Jim Lehrer (PBS), CNN News Night with Aaron Brown (CNN), Good Morning America (ABC)
60 ... Drudge Report
61 ... World News Tonight with Peter Jennings (ABC)
62 ... NBC Nightly News with Tom Brokaw (NBC)
74 ... CBS Evening News with Dan Rather (CBS), New York Times

こんな結果で、夜6時台のネットワークはどれも左寄りだが、特にCBSニュースのリベラル度が際だっている。この調査に寄れば、Fox Newsの保守偏向よりも、CBSやNew York Timesのリベラル偏向の度合いのほうが高いことになる。一方、公共TVのPBSは比較的偏向度が低いといえるだろう。また、これはRatherbiased.comでも指摘しているが、大統領・副大統領候補討論の司会者の4人のうち、3人は偏向度の低い番組 (The News Hour with Jim Lehrer, Good Morning America)から選ばれているというのも、なかなかに興味深い。

| | Comments (3) | TrackBack

CBSの調査リポートが出てこない件

さて、久しぶりにラザーゲートの話題。9月に、ニュース報道に捏造文書を使ったことが明るみに出たとき、CBSニュースは調査委員会をすぐに組織、完全な真相究明を約束した。そのとき、CBSニュース会長のAndrew Hayward氏は、調査書を「何ヶ月というよりは、何週間」の中に発表すると公言した。

それからもうすぐ3か月になろうとしているが、調査リポートはまだ発表されていない。ラザーゲートを追っているサイトRatherbiased.comのニュースページによると、調査書の全文を公表するかどうかで社内が割れているという。特に、局の重役の一部が、全文公表に否定的だという。(参考)また、USA Today紙によると、発表は1月以降になるとのことだ。(参考)まあ、全文公表するかどうかが議論になっているというのが本当ならば、その内容はCBSにとっていいニュースではないのだろう。また、Washington Timesの記事によると、この調査書発表後、4、5人がクビになるだろうと言われている。(参考

ラザー氏の "Evening News" の後任が決まらないなか、いつこの調査書を発表するのか、難しいタイミングではあるのだが…。思い切って、同じ親会社のComedy Centralの番組 "The Daily Show" をこのスロットに持ってきたらどうだろうか? …まあ、それはCBSのニュース部門を閉鎖するのに等しいからありえないわけだが、CBSニュースの信用低下はこうしている間に続いているのだ。

| | Comments (2) | TrackBack

December 16, 2004

切込隊長というカオスモス

切込隊長ゴーログの木村剛氏に絡んでいる件について。私は金融業界について詳しくないので、エントリの詳細についてはコメントできないし、正直言ってどれだけ「やばい」話なのかというのは、非常に感覚的にしかつかめないところである。しかし、現在日本のブログ界隈で非常に大きな存在である二人のバトルということで、日本のブログの歴史に残る事件になるのでは、というように考えられている。この論争について内容をすっ飛ばして論評するのは一面的なのはわかっているが、ブログのあり方についていろいろ考えるところもあるのでコメントする。(一連の流れについてはArtifactのエントリによくまとめられている。)

まず、切込隊長というのは、書き手としては希有な存在だということは言えるだろう。現実感覚、守備範囲の広さ、スピード感、そしてある種の動物的な生々しさをすべて備えている。この世には頭のいい人がいるものだなあ、と感嘆せざるをえないし、文章の天使が微笑んでいるという気もする。だから、金融の話とかまったくわからなくても、とにかく読ませるものがある。たとえば、今の日本の作家でこういう勢いを感じさせるのは町田康くらいじゃないだろうか。いっぽう、そのスピード感ゆえに、危うさのようなものも感じさせる。どこかtipping pointがあって、そこを越えたらどうなるんだろうと心配させる、というか。しかし、今のところ、ブログが続いていると言うことは、tipping pointを越えていないということなのだろう。だから、金融のことは知らなくても、そんなある種の才能を目の当たりにしているという感覚があって、彼のブログをつい読みふけってしまう人というのは多いと思う。

彼のブログに関して言えば、コメント欄が面白い。個々のエントリに、2ちゃんねると同じような雰囲気のコメントが何百とつく。そういうカオスをすべて飲み込める、というのは感心する。ブログが大きくなってくると、当然ノイズが増えてくるのだが、ブロガーにはそういうノイズをすべて受け入れるタイプと、自分の文章が同じサイトで批判されるというのが耐えきれなくて、徹底的に論破するかコメント欄を閉鎖するかのどちらかになってしまうタイプと大きく2種類あると思うが、切込隊長はもちろん前者のほうで、しかも、そのエネルギーを取り込んで自分のエントリの力にしていく、という広がりがある。2ちゃんねる的なものを取り込んで、一個人の意見という領域を越えて小宇宙のような感じさえうける。

そこで思い出したのが、カオスモス (Chaosmos) という言葉。これは、ウンベルト・エーコがジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』について書いたのタイトルにある言葉なのだが、切込隊長の文章を総体としてみると、『ユリシーズ』が20世紀初頭のダブリンの社会を、人間社会のカオスはそのままにひとつの小宇宙として結晶させたようなものを感じさせる。たとえば、切込隊長BLOGの過去ログを保存して、100年後の人が読むとしたら、2004年の日本のある一つのサブカル世界をひとつの小宇宙としてつかめるのでは、という気がする。しかし、この場合、その小宇宙的な広がりを保証しているのは、エントリ+掲示板という形のフォーマットというのが興味深い。というわけで、切込氏の書き手としての活動に期待している。(まあ、こうしてこのブログを文学として読んでしまうところに私の限界があるわけだが。)

さて、最近の木村剛氏関連のエントリなのだが、文学的な価値はさておき、情報ソースとしてのブログとしてはいまいち機能していないんじゃないかという気はする。何かすごいことが起こっているのはわかるが、遠巻きに見ているしかないという雰囲気がある。ひとつには、かなり暴露的な内容を含んだエントリが2度も書き換えられたということがある。紙メディアと違い、ネットは書き換え・訂正が簡単にできるのだが、それが落とし穴でもあると私は思う。ネット論争ではこの手の書き換えは日常茶飯事だが、普通のメディアに慣れている人には、この手の書き換えがあると事件の流れが追いにくいし、また、ネットではただでさえ得難いメディアとしての信用も失いやすいのではないかと思う。よほどの有名人でもない限り、筆者は一度活字にしたら責任を持つ、というところで自分の言葉の重み(信用)を支えるしかないと思う。もちろん、ネット論争のベテランの切込氏は、様々なテクニックを駆使しつつ議論を絶妙に操っているとは思うのだが、一般メディアしか知らない人にはなかなかついて行けない。

それに、一つのエントリにさまざまな問題点が混在しているため、ひとつひとつの論点の検証ではなく、「切込隊長BLOG対ゴーログ」というサイト間の対決という構図になってしまっている。それはそれで面白いのだが、この形では、情報リソースとしてのブログの利点を生かせないのではないだろうか。たとえば、ラザーゲートの場合、数え切れないほどのブロガーがCBSの報道の検証に参加したのだが、個々のエントリでは、かなり局地的な問題を論じている。それが、ブログのネットワークの中で高速で伝播し、検証され、総括されていくというプロセスで、マスメディアの内部の検証機構を完全にやっつけたという過程があった。しかし、この論争では、ソースが切込氏の取材と言うことで切込氏が独走しているということと、一つ一つのエントリに含まれる問題が多すぎることがあって、他のブロガーが論争に参加しにくい構造があると思う。一つのエントリに一つの問題だけ扱い、またそのエントリは訂正しないというような方法でいけば、ブログ界隈全体の検証能力をフルに活用できるのでは、という気がする。

しかし、前に書いたように、切込氏の意図はそういうところにはないのだろう。だから、私のような者は、何かすごいことが起こっていると思いながら遠巻きに見守るしかないということなのだ。

| | Comments (0) | TrackBack

ブロガーが作家デビュー

A New Forum (Blogging) Inspires the Old (Books) (NYT; via Althouse)
先日の結婚についてのネタに続いてAlthouse経由。(このブログ、学期末のせいか、最近ものすごい勢いで更新されている。)
アメリカで、出版業界が書き手としてのブロガーに目をつけ、作家デビューするケースも増えているらしい。高額の契約金を手にする人々も増えているらしい。例えば、このサイトでも何度か紹介したWonketteのAna Marie Coxが小説を執筆、前払いで27万5000ドルを手にしたという例が挙げられている。

この記事で面白いのは、ブロガーをクライエントに持つ出版エージェントのインタビュー。Gawker.comのElizabeth SpiersやInstapunditのレイノルズ教授などがクライエントになっているという。このエージェントによると、ブロガーは、ブログという口コミネットワークをすでに持っているから、金を払って宣伝するよりも効果的に読者を獲得できるという。このエージェントを通して、単行本プロジェクトをゲットしたブロガーが多く出ているらしい。

もしブロガー出身の作家や書き手が多く生まれてくれば、作家志望の書き手がブログに本気で取り組む動機もできて、ブログというメディアがもっと盛り上がるだろう。読む側も、将来の作家の登竜門としてブログを読むという楽しみも生まれるかもしれない。一つ障壁になりそうなのは、ブログを書くのと一冊の本を書くのではアプローチが根本的に異なるのではないか、ということ。ブログは、読む側も書く側も、とにかく速報性というか、《現在》にいかに絡んでいけるかが面白いところであって、それを継続して一つの作品にしていくというのは別のチャンネルを使うのではないかというのは考えられる。

| | Comments (0) | TrackBack

December 15, 2004

ネオコン・クリストルのラムズフェルド批判

今日のワシントン・ポストのオピニオン欄に、ネオコン系雑誌 "The Weekly Standard" 主幹のビル・クリストルがラムズフェルド国防長官を名指しで批判している。
The Defense Secretary We Have (Wash Post)
イラク戦争の遂行上の諸問題はともかく、その大義については100%支持してきたクリストルからの批判ということで、その内容というよりはネオコン論客の動向として興味深い。早速、ケーブルTVの政治番組の "Hardball" でも特集を組むようだ。

ラムズフェルド氏は、先週、クウェートを訪問したときに現地の兵隊から「装甲車の装甲が足りない」と直接質問を受けたことで批判の矢面に立った。この場面、テレビで何度も放送されたのだが、質問の後に聴衆の軍人たちから拍手が起こったり、彼の解答が「軍人とは手元にある装備で戦うものだ」と、事実上「文句言わずに黙って仕事しろ」という内容だったりして、現在の現地の兵隊たちの不満表明という意味では、非常に象徴的でわかりやすい映像だった。

で、クリストル氏の論点だが、装備や備品の不足、地上兵力の不足など、この戦争にかかわる失政についてラムズフェルド氏がまったく責任を取らない、という一言にまとめられる。上の問答のラムズフェルド氏の言葉を引きながら、計画遂行について陸軍にまかせっきりで、失敗については責任を取らないという態度が、言葉の端々にまで表れている、という。

また、現在のイラクの混迷の原因は、戦闘が終結した時点で十分な兵力をつぎ込んで治安安定をしなかったからだ、と批判している。このての批判は、イラク戦争開始から懐疑的だった、たとえばハワード・ディーンのような人たちではなく、戦争自体には賛成していたジョー・リーバーマンなどからよく聞かれたものだが、クリストル氏のような立場の人が軍事思考の根本的な差異をこのような形ではっきり提示しているというのは興味深い。(ちなみに、リーバーマン氏は現政権2期目の本土防衛長官や国連大使に名前が挙がっているが、本人は拒否しているらしい。)戦闘が終わったころは、ハイテク兵器を駆使して最小限の兵力でミッションを遂行するラムズフェルド氏のドクトリンが賞賛されていたのだが、今振り返ると、戦後の混乱はその辺りの根本的な軍事思考の違いから出て来ているということだろう。ともあれ、ラムズフェルド氏の味方はホワイトハウスの外にはほとんどいないということを感じさせる。

さて、そのホワイトハウスだが、民間人に与える最高の栄誉である「自由勲章」を、

  • 9/11についての情報を断片的に得ていながら阻止できず、イラクの大量破壊兵器疑惑について「スラムダンクですよ(間違いない)」と言ったテネット前CIA長官
  • イラク戦後、「兵隊は足りていますよ」と言い続けたフランクス前中央軍司令官
  • イラク戦後統治の責任者であるブレマー行政官

の3人に与えると発表。揃いも揃って、現在のイラク情勢に責任のある人々を選んだ。テネット氏はイラク戦争の諜報活動失敗の責任を取らされたと思っていたのだが、結局そうでもないらしい。クビにできないとしても、何も最高の勲章を与えなくても、と思うのだが、現政権は、失政したら責任を取らせるという思考とはまったく別のロジックで動いているらしい。これがあと4年続くと思うと少々うんざりという気もしてくるのだが、上下院も共和党が握っている現在、民主党の動向よりも、共和党内が分裂するかどうかが鍵になってくる。その意味でも今日のクリストル氏の発言が注目を集めているのだろう。

| | Comments (6) | TrackBack

December 13, 2004

「男性は自分の上司よりも秘書と結婚したい」という研究

Glass Ceilings at Altar as Well as Boardroom (NYT)

最近のR30さんのエントリについて、日本の働く女性も大変だなと思っていたところ、Althouseでちょうどこんな記事がリンクされていた。この記事では、ミシガン大学で発表された心理学の研究結果について紹介している。記事のタイトルの "Glass Ceilings" というのは、女性が社会進出するときにぶつかる「見えない壁」のことで、会社の重役室だけじゃなくて結婚式の行われる教会の祭壇でも障害がある、という意味。記事の書き出しでは、研究の結果を次のようにまとめている。

Men would rather marry their secretaries than their bosses, and evolution may be to blame, psychology researchers at the University of Michigan reported last week.

The study, in which college undergraduates were asked to make hypothetical choices, suggests that men in search of long-term relationships prefer to marry women in subordinate jobs rather than women who are supervisors, said Dr. Stephanie Brown, a social psychologist at the University of Michigan's Institute for Social Research and the report's lead author.

男性は「自分のボスよりも秘書と結婚したい」、つまり、「長期的なおつきあいを求めている男性は、自分の上司よりも自分より地位が低い女性を選ぶ傾向にある」というわけだ。この記事に沿って、実験モデルを説明すると次のようになる。

  • 大学生の男子120人、女子208人に対して、「職場で知り合った人」というシチュエーションを想像してもらい、質問に答えてもらう。
  • 例えば、「あなたはつい最近就職しました。そこのあなたの直接の上司(同僚、部下)はジェニファーさんと言います」という状況で、ジェニファーさんをパーティに誘うか、付き合うか、結婚するか、の可能性を最低1から最高10で採点してもらう。
  • その結果、女子の場合は相手の地位はあまり点数に影響がなかった。いっぽう、男子は、パーティに誘う場合には差がつかなかったが、結婚となると、上司よりも部下という好みがはっきりと現れた。

この結果について、研究を行った「社会心理学者」は、このような傾向は、単に男性が虚栄心が強いとか、プライドを傷つけられたくないとかいうだけでなく、人間の進化のプロセスで組み込まれた傾向だという。すなわち、男性に従属する女性は、浮気もしないから、多くの子孫を残しやすく、子孫を残すという観点で優位に立つわけで、男性は、子孫を残す割合の高い女性を本能的に選択するのだと。

というわけで、この研究は女性の社会進出を進めるという理想にストレートに冷や水を浴びせかけているわけだが、心理学の方法論には疎い私でさえ、こんなアンケート結果から「進化論が…」という結論を導き出すのは少々飛躍があるのでは、と思わざるを得ない。このような結果が出るのは、現在のアメリカの大学生の結婚観というか、社会観というかを反映しているかもしれないが、そのような結婚観を持つようになった理由には、経済的・政治的・社会的な要因がからみあっているはずで、それをすっ飛ばして生物学的な説明をしてしまうのはおかしいだろう。しかし、アメリカの若い男の大学生の本音と考えると面白い。日本で同じようなアンケート調査をして同じような結果が出たとしても、「日本はアメリカと違ってまだまだ女性の社会進出への理解が足りませんね」というような説明が出てくるのだろうが、アメリカでこういう結果が出たのだから、アメリカでもまだまだ「差別」が続いていると考えるのか、それとも日本もアメリカも(社会の表に出る理想的な議論はともかく、本音としては)大して変わらないと考えるべきなのか。

で、この記事を紹介していたブログ、Althouseでは、これと対照して、ノーベル文学賞受賞の作家、Elfriede Jelinek のインタビューを紹介している。

I describe the relationship between man and woman as a Hegelian relationship between master and slave. As long as men are able to increase their sexual value through work, fame or wealth, while women are only powerful through their body, beauty and youth, nothing will change.
-- How can you cling to such dated stereotypes when you yourself are acclaimed internationally for your intellect?
A woman who becomes famous through her work reduces her erotic value. A woman is permitted to chat or babble, but speaking in public with authority is still the greatest transgression.
-- You're suggesting that your achievements, like winning the Nobel Prize in Literature, detract from your overall appeal.
Certainly! A woman's artistic output makes her monstrous to men if she does not know to make herself small at the same time and present herself as a commodity. At best people are afraid of her.

男性と女性の関係が主人=奴隷の関係であって、男性の性的価値が仕事や金・名誉によって上昇するのに対し、女性の性的価値は肉体・美・若さなどによって上昇するという根本的な枠組みが変わらない限り、なにも変わらないと言っている。この作家自身の体験もこめての意見なのだろうが、現象的には、男性は自分より地位が低い女性を好み、自分より成功している女性は脅威に感じる、という点では上の研究結果と同じ現実を示していると思う。

R30さんの記事に戻ると、結婚もしたいし社会で活躍もしたいという日本の若い(30代の?)女性と、そういう女性に「理解」を示しつつも本音では家庭に入ってもらいたいという若い(同世代の?)男性のあいだで、女性の方がダブル・バインドに陥っている、という観察は興味深いが、それが、日本では女性の社会進出への理解がまだまだ低いから、という説明も不十分な気がする。アメリカでもヨーロッパでもそういう現実はあるからだ。むしろ、男女関係のなかで権力関係がむきだしの形で表面化する、というあたりで、日本と欧米の男女関係が似てきているという証拠のような気がするのだが。ただ、日本ではこのあたりの関係が50年前にはどうなっていたかということを思い出せないということが、ある種の喪失感につながっているとは思うのですがいかがでしょうか。(いや、私にはこんなエントリを書くほどの経験も知識もないので皆さんからのコメントをお待ちしています。)まあ、Althouseも言っているように、こういうドライな見方で結婚を見るというのも寂しいわけですが。

| | Comments (2) | TrackBack

December 09, 2004

Crooked Timber

Left2Right の執筆者リストからいつの間にかローティが消えてますね。残念。まあ、他の執筆者も有名な教授が多く、今のところ読み応えのあるエントリが多いわけですが。
で、そのついでにといいますか、アメリカのアカデミック・ブログとして最も有名なグループ・ブログ、Crooked Timberを紹介しておきます。サイドメニューにあるアメリカのアカデミック・ブログのリンク集は非常に有益です。

| | Comments (0) | TrackBack

December 07, 2004

Left2Right: そして対話は続く

今日は、新しいブログをご紹介。
Left2Right: How can the Left get through to the Right?

副題は、「左派の人々はどうしたら右派の人々にメッセージを伝えられるか?」という意味だが、もちろん、今回の米大統領選で、アメリカという国が共和党支持のRed-Statesと民主党支持のBlue-Statesに分裂しているとか、リベラル派の学者、知識人、政治家たちが保守系の人々に語る言葉を持ち合わせていない、といった現状を指して「ではこの状態を改善するにはどうしたらいいのか?」という問題意識から大学関係者がはじめたグループ・ブログである。このブログの目的を読んで目を引くのは、「人にメッセージを届けるのには、まず彼らのいうことを聴き、彼らから学ぼうという姿勢をとることである」という言葉である。

寄稿(予定)者のリストをみると、リチャード・ローティやら、アフリカン・アメリカン研究で知られる歴史家のクワミ・アンソニー・アッピアなど大物が名前をつらねている。ローティなどが本当に定期的に寄稿するようなら面白いと思うが、アッピアはすでに一つエントリを書いていて、アメリカの反知性主義には、ある種の自信の欠乏があって、間違いを指摘されればされるほど意固地になってしまう心理がある、と指摘している。彼らの「リベラル派は保守派を軽蔑している」という認識は、じつは彼らが抱えている自身への疑念の裏返しなのだ、と。一方で、「私も昔は福音派だったからね」などと告白しつつ、福音派の人々に内容のある議論をしようと挑発している。他にも、まだきちんと読んではいないが、「分裂する国家アメリカ」というイメージ自体を疑ったり、現在アメリカの政治言論が抱えている問題についてアカデミックな立場から語ったり、なかなか面白そうなエントリが並んでいる。このサイトから本当の意味の対話が始まるか、今後に注目だ。

また、今アメリカの政治系ブログでなにが話題になっているか、ひとめでわかるサイトも紹介しておこう。
The Daou Report
右から左まで、現在ホットな話題がひとめでわかるサイト。

| | Comments (1) | TrackBack

「世界文学」のいま、そして日本文学

たしか大江健三郎の講演に「世界文学は日本文学たりえるか?」というのがあったように思うが、このエントリはその話とは関係ない。現在日本文学の授業を教えていて、今日は村上春樹・ポストモダン・おたくの三題噺をした。まあそれはそれで、もはや陳腐ですらある「近代日本文学」の授業のひとこまなのだが、このような現象の斬り方が、日本の側から見た内向きのものなのか、それとも日本文学を少なくとも「世界文学」ーそれをどう定義するのであれーの文脈で捉ええたものになっているのか、というのが少し気になった。

そんないきさつもあり、ふと、「世界文学」の教科書で日本文学のテキストはどのような立場をになっているのか、どんなテキストが選ばれているのか、と思い、Norton Anthology of World Literatureのウェブサイトを覗いてみた。

ここでひとつ断っておくと、現在米国の大学で「世界文学」なるものを教えよう、というとき、ある一定のコンセンサスがあるわけではない。とりあえず近現代の文学(19世紀以降)に限るとしても、ゲーテの "Weltliteratur" というのはいかにもヨーロッパ中心主義だし、「東西比較文学」という枠組みも、ヨーロッパ+東アジアという枠組みであって、最近ポストコロニアル、クレオールなどのキー・ワードで語られるようになったインド、アフリカ、カリブ海などの文学がばっさりと落ちてしまう。サッカーのトヨタカップでクラブ世界一が決められないというようなものだ。しかし、アメリカの大学でも「世界文学」という枠で学部生向けの授業を教えたい、というような需要というか、要望はあるわけで、あとは個々の教授が、大きな動向と自分の癖をすり合わせながら教科書的「リスト」を創るしかない。そういう意味では、このNortonのアンソロジーもそのような試みのひとつ、という位置づけでしかないのだが、そこはやはりW・W・ノートンなわけで、今のところの米国の大学人が出したベストの答えの一つ、という意味はあると思う。

前口上が長くなったが、とりあえず、この「20世紀文学」の年表を見ていただきたい。この年表に登場する日本の作家を挙げると、
1895 樋口一葉「たけくらべ」
1935-47 川端康成「雪国」
1954 小島信夫「アメリカン・スクール」
1956 谷崎潤一郎「鍵」
1960 庄野潤三「静物」
これだけ。このリスト、いろいろ考えさせられる。鴎外も、漱石も、当然のようになしで、「日本の代表的な作家が抜けている」と思われる方もいることだろう。しかし、このようなリストが出来るプロセスを考えると実は結構妥当なものだと思う。まあ強いて言うなら村上春樹が載っていてもおかしくないと思うが(最近はロシアや中国でも人気があることだし)、それ以外は、それなりの理由があってこのようなセレクションになっていると思う。

では、なぜこのようなリストになるのか。それには、編者が選んだ20世紀文学の切り口があり、その語りにあてはまるテクストが選ばれたということが最大の要因だろう。同じアンソロジーのウェブサイトでは、20世紀の文学を、「ヨーロッパのモダニズム」と「脱植民地化」という二つのコンセプトでまとめている。たとえば、「ヨーロッパのモダニズム」のイントロでは、こうまとめている。

1. In the twentieth century, modernization was used in tandem with colonization as a means to legitimize the often forced adoption of Western concepts of "progress" in different parts of the world. As such, modernization also became a stimulus for movements that rejected "progress" in favor of "tradition."

2. European writers and thinkers looked beyond models of scientific rationalism for means of expressing knowledge of the world and lived experience that could not be apprehended by intellect alone.

イギリス、ドイツ、フランスなどのハイ・モダニズムの大物作家の営みをまとめると、こういうまとめ方は妥当だと思う。これで、エリオット、イェーツからウルフ、ジョイス、トーマス・マンまで、だいたい入る。では、このような大きな語りにたとえば漱石があてはまるか、となると、残念ながら非常にローカルな話になってしまうような気がする。例えばヘンリー・ジェイムスなどと比べても全然迫力が違うし(こういう比較が無意味なのは承知の上で)、ヨーロッパの作家たちの緊密な関係を見ると仲間入りするのは難しい気がする。

となると、日本の作家が入れそうなのは、やはり「非西洋」カテゴリーとなるだろう。その意味では、マサオ・ミヨシ氏が日本文学を「第三世界文学」と喝破したのは当たっていると言わざるを得ない。しかし、現在の文学研究の潮流と言うべきか、このカテゴリーは、現在の文学研究の流れでは、「脱植民地化」というコンセプトからもわかる通り、植民地=被植民地という関係の中でとらえられる。言語も、旧植民地の国々で、宗主国の言語とどうつきあうか、ネイティブの言葉をどう「再発見」するか、という問題が主題となってくる。こちらで言及されている作家を見ると、タゴール、アチェベ、ソインカ、ラシュディなど、なかなか錚々たるメンバーだ。

この文脈で浮かび上がってくる日本の作家、となると、例えば「日本回帰」後の谷崎。「陰影礼賛」など、近代化=西洋化と伝統的美意識の相克、というテーマが端的に打ち出されているので、教科書的には使いやすい。また、敗戦後のアメリカ占領体験、となると、「アメリカン・スクール」以上に被占領国の屈辱感を表現した作品もないであろう。庄野潤三だって、占領後の「戦後文学」の流れの一環として捉えるとわかりやすいという話なのではないだろうか。そういう意味は、今書かれる世界史的な意義において、たとえば「第三の新人」の作家のほうが、日本で文壇の大物と目されている作家たちよりも重視されているという構図が見えてくるように思う。私見だが、「ポストコロニアル」という視点で漱石や鴎外を再評価するということは十分に可能なように思う。あとは、研究者がその流れの中で研究をしていくだけだ。

このように、現在ある「世界文学」の教科書的な語りには、いくつかのストーリーラインがある。海外に目を向けている日本文学の研究者としては、このストーリーラインを意識して、その流れに日本の作家たちを乗せていこうとするという試みが必要なように思う。ここで思い出すのが、柄谷行人氏が、『近代日本文学の起源』が英訳されて北米圏で注目を浴び始めた80年代後半から90年代にかけ、日本のマルキシストたちや中上健次を紹介するレクチャーをしていたことだ。「最後の近代日本文学の作家」こと中上健次はともかく、講座派やら労農派やらの話をアメリカの学者たちにしていたのは、日本ではなかなか注目度が低いマルキシストたちを、「20世紀史におけるマルキシズム」というストーリーラインに一気に乗せてしまおうと考えたのではないだろうか、と思う。まあ、まだ小林多喜二がノートンのアンソロジーに載るまでには至っていないわけだが、その意図はわかる。となると、例えば世界の左翼思想の大きな流れに日本の左翼思想が貢献したものは何だったのかな、と考えざるをえない。ひいては、日本語で書いた・書いている作家の世界史的な意義は何だったのか、と。私見だが、世界の作家たちと交流し、日本の文壇で「世界文学」ということをよく言う大江氏のような人も、実はバスに乗り損ねたのではないかなあ、という思いを強くする。いや、(政治的な発言はともかく)大江氏は実力のある作家だとは思う。ただ、このバスに乗るのには運も実力も必要だよなあ、とは強く感じるし、大江氏の作品群も、『万延元年のフットボール』以降は、究極的には内向きな作品なのではないのかなあという気がする。

振りかえるに、私の興味はそういう世界の大きな流れからはほど遠いなあ、とか、でもそれに乗せていかないとこういう仕事をしている意味はないよな、とかさまざまに思うところはある。さて、私がこんなことを書くのは、べつに「世界」の立場から「日本」を批判するためではない、ということは強調しておきたい。たまたまアメリカで日本文学を学んでいるのだが、なんの因果でこんな仕事をしているかな、とはよく思う。お金にもならないしなかなか評価もされない。しかし、このような視点から「日本文学」を見ることは、「日本文学が世界で評価されない、誤解されている」と嘆くよりも合理的で生産的なように思えるのだ。

| | Comments (6) | TrackBack

December 02, 2004

ブロガーとしての大学教授

シカゴ大学助教授(政治学)でブロガーのDaniel Dreznerが、ブログと研究活動について書いている。
Musings on blogging and scholaraship

きっかけは、ノーベル経済学賞受賞学者のGary Becker第7上訴裁判所第7巡回区連邦控訴裁判所の判事のRichard Posnerが共同でBlogを開始する、というニュース。(この方々のすごさについて私はいまいちぴんと来ないので、読者でこちらの分野に詳しい方に解説して頂けるとありがたいのですが。)経済学・法学の大物がブログに登場、ということで、学者としての研究活動とブログを書くことが両立するかについて論じているのだが、アメリカにおける学者ブロガーの現在がわかって面白い。

現在、哲学や法学のブロガーは多いが、経済学や政治学ではまだまだということのようだ。その要因のひとつとして、tenureを持っている(日本で言えば、常勤の)大物学者がまだまだブログについて偏見をもっているため、若い学者が、自分の昇進のチャンスがなくなるならと心配して参加に消極的になってしまうのではないか、という分析を紹介している。ここでの問題は、ブログを書くことが研究活動として認められるかどうか、なのだが、ここからリンクしてあったこのエントリ(marginal revolution)では、ブログを既存の研究活動に位置づけるモデルとして、次のような例を挙げている。
1)ブログは短い研究論文である。(新しい考えの提示)
2)単体のブログエントリではなく、ブログの世界全体 (blogosphere)で見れば、分析の道具として機能していると考えられる
3)ブログを使って、自分の研究成果を広く伝えることができる。
4)ブログは、研究誌を編集しているようなものである。
5)ブログのエントリは講演のようなもの
6)ブログは、長い叙事詩にも似た、新しいメディアである

Drezner氏は、大物学者がブログに参入すれば、若い学者もブログを書きやすくなるのではないか、ということで、政治学の学者でブログに参加して欲しい人は誰だろうか、と問いかけて結んでいる。コメント欄にでている名前を見てみると、サミュエル・ハンチントンや、ジョセフ・ナイなど、日本でも知られた名前も見られる。(ジョセフ・ナイといえば、Dreznerの最近のエントリで、ナイ氏が最近小説を出版して、学者らしくないセクシーな場面があるというのを紹介していた。)

日本を振り返ってみるに、大学の知識人というか、いわゆる論客でブログを持っているのは西尾幹二氏とか(いつの間にアドレスが変わっている…)、宮台真司氏とかだろうか。あと、もう少し若くなるが、私も注目して見ているised@glocomに参加している方々も。それから、news_from_japanのakiさんや、「おおやにき」の大屋さん。また、ブログではないが、時事問題についてネット上で発言しておられる亀井秀雄氏。どの方も、退官されたか、若手の方という印象。もっと大物の論客や大学教授がブログに参入したら、若手も心おきなくブログを書けるかもしれない。

逆に、学者がブログに参入するメリットはなんだろうか。
 まず、論壇誌や新聞などを媒介せず、自分の意見をそのまま発表できること。そもそも、Drezner氏がBlogを始めたのは、New York Timesにオピニオン記事を送っても掲載されないので、その憂さ晴らしに自分の考えを発表し始めたため、というのをどこかで読んだ。その彼も、Blogを通して言論界でのプレゼンスが増し、最近はNew York Timesにオピニオン記事が載ったばかりである。
 次に、ブログを中心としたネット上の議論において、ネットメディアで記事を発表する方が、紙メディアやTV・ラジオよりも影響力が大きくなること。ネット上にある記事ならリンクを張ればいいが、他メディアの場合は、誰かが打ち直すか、スキャン・キャプチャなど、メディアを映す必要がでてくる。もちろん、自分の考えをネット上で晒すことにはリスクもあるだろう。例えば、朝日新聞のあるコラムニストなどは、ネットでコラムを発表していなかったらここまで批判されることはないだろうとは思う。(もちろん、批判されて仕方ない内容なわけですが。)しかし、これから情報・コミュニケーションの主軸が紙からネットに移っていくという大きな流れは絶対なのだから、早めに参入しておいたほうが得だとは思うのだが。
 切込氏あたりでつづいているネット・ジャーナリズムについての議論は私は横目で見ているだけなのだが、ブログでしか読めない面白い論客が今の10倍くらい出てきたら状況は自然と変わると思っているので、あまりそちらのテクニカルな議論については興味がなくなってしまった。それより、既存メディアで有名な論客がもっとブログに参入すればいいのに、とは思う。まあ、このエントリが問題提起になれば、とは思う。

 あ、このブログはあくまで趣味でやっているので、自分は「学者ブロガー」ではないと思います。そのつもりならやはり実名でやらないといけないと思うし。でも、大きな流れとしては興味がありますね。

| | Comments (5) | TrackBack

(2006年5月 むなぐるま管理人からの受託により保管)

ウェブログ図書館 http://library.jienology.com/