「世界文学」のいま、そして日本文学
たしか大江健三郎の講演に「世界文学は日本文学たりえるか?」というのがあったように思うが、このエントリはその話とは関係ない。現在日本文学の授業を教えていて、今日は村上春樹・ポストモダン・おたくの三題噺をした。まあそれはそれで、もはや陳腐ですらある「近代日本文学」の授業のひとこまなのだが、このような現象の斬り方が、日本の側から見た内向きのものなのか、それとも日本文学を少なくとも「世界文学」ーそれをどう定義するのであれーの文脈で捉ええたものになっているのか、というのが少し気になった。
そんないきさつもあり、ふと、「世界文学」の教科書で日本文学のテキストはどのような立場をになっているのか、どんなテキストが選ばれているのか、と思い、Norton Anthology of World Literatureのウェブサイトを覗いてみた。
ここでひとつ断っておくと、現在米国の大学で「世界文学」なるものを教えよう、というとき、ある一定のコンセンサスがあるわけではない。とりあえず近現代の文学(19世紀以降)に限るとしても、ゲーテの "Weltliteratur" というのはいかにもヨーロッパ中心主義だし、「東西比較文学」という枠組みも、ヨーロッパ+東アジアという枠組みであって、最近ポストコロニアル、クレオールなどのキー・ワードで語られるようになったインド、アフリカ、カリブ海などの文学がばっさりと落ちてしまう。サッカーのトヨタカップでクラブ世界一が決められないというようなものだ。しかし、アメリカの大学でも「世界文学」という枠で学部生向けの授業を教えたい、というような需要というか、要望はあるわけで、あとは個々の教授が、大きな動向と自分の癖をすり合わせながら教科書的「リスト」を創るしかない。そういう意味では、このNortonのアンソロジーもそのような試みのひとつ、という位置づけでしかないのだが、そこはやはりW・W・ノートンなわけで、今のところの米国の大学人が出したベストの答えの一つ、という意味はあると思う。
前口上が長くなったが、とりあえず、この「20世紀文学」の年表を見ていただきたい。この年表に登場する日本の作家を挙げると、
1895 樋口一葉「たけくらべ」
1935-47 川端康成「雪国」
1954 小島信夫「アメリカン・スクール」
1956 谷崎潤一郎「鍵」
1960 庄野潤三「静物」
これだけ。このリスト、いろいろ考えさせられる。鴎外も、漱石も、当然のようになしで、「日本の代表的な作家が抜けている」と思われる方もいることだろう。しかし、このようなリストが出来るプロセスを考えると実は結構妥当なものだと思う。まあ強いて言うなら村上春樹が載っていてもおかしくないと思うが(最近はロシアや中国でも人気があることだし)、それ以外は、それなりの理由があってこのようなセレクションになっていると思う。
では、なぜこのようなリストになるのか。それには、編者が選んだ20世紀文学の切り口があり、その語りにあてはまるテクストが選ばれたということが最大の要因だろう。同じアンソロジーのウェブサイトでは、20世紀の文学を、「ヨーロッパのモダニズム」と「脱植民地化」という二つのコンセプトでまとめている。たとえば、「ヨーロッパのモダニズム」のイントロでは、こうまとめている。
1. In the twentieth century, modernization was used in tandem with colonization as a means to legitimize the often forced adoption of Western concepts of "progress" in different parts of the world. As such, modernization also became a stimulus for movements that rejected "progress" in favor of "tradition."
2. European writers and thinkers looked beyond models of scientific rationalism for means of expressing knowledge of the world and lived experience that could not be apprehended by intellect alone.
イギリス、ドイツ、フランスなどのハイ・モダニズムの大物作家の営みをまとめると、こういうまとめ方は妥当だと思う。これで、エリオット、イェーツからウルフ、ジョイス、トーマス・マンまで、だいたい入る。では、このような大きな語りにたとえば漱石があてはまるか、となると、残念ながら非常にローカルな話になってしまうような気がする。例えばヘンリー・ジェイムスなどと比べても全然迫力が違うし(こういう比較が無意味なのは承知の上で)、ヨーロッパの作家たちの緊密な関係を見ると仲間入りするのは難しい気がする。
となると、日本の作家が入れそうなのは、やはり「非西洋」カテゴリーとなるだろう。その意味では、マサオ・ミヨシ氏が日本文学を「第三世界文学」と喝破したのは当たっていると言わざるを得ない。しかし、現在の文学研究の潮流と言うべきか、このカテゴリーは、現在の文学研究の流れでは、「脱植民地化」というコンセプトからもわかる通り、植民地=被植民地という関係の中でとらえられる。言語も、旧植民地の国々で、宗主国の言語とどうつきあうか、ネイティブの言葉をどう「再発見」するか、という問題が主題となってくる。こちらで言及されている作家を見ると、タゴール、アチェベ、ソインカ、ラシュディなど、なかなか錚々たるメンバーだ。
この文脈で浮かび上がってくる日本の作家、となると、例えば「日本回帰」後の谷崎。「陰影礼賛」など、近代化=西洋化と伝統的美意識の相克、というテーマが端的に打ち出されているので、教科書的には使いやすい。また、敗戦後のアメリカ占領体験、となると、「アメリカン・スクール」以上に被占領国の屈辱感を表現した作品もないであろう。庄野潤三だって、占領後の「戦後文学」の流れの一環として捉えるとわかりやすいという話なのではないだろうか。そういう意味は、今書かれる世界史的な意義において、たとえば「第三の新人」の作家のほうが、日本で文壇の大物と目されている作家たちよりも重視されているという構図が見えてくるように思う。私見だが、「ポストコロニアル」という視点で漱石や鴎外を再評価するということは十分に可能なように思う。あとは、研究者がその流れの中で研究をしていくだけだ。
このように、現在ある「世界文学」の教科書的な語りには、いくつかのストーリーラインがある。海外に目を向けている日本文学の研究者としては、このストーリーラインを意識して、その流れに日本の作家たちを乗せていこうとするという試みが必要なように思う。ここで思い出すのが、柄谷行人氏が、『近代日本文学の起源』が英訳されて北米圏で注目を浴び始めた80年代後半から90年代にかけ、日本のマルキシストたちや中上健次を紹介するレクチャーをしていたことだ。「最後の近代日本文学の作家」こと中上健次はともかく、講座派やら労農派やらの話をアメリカの学者たちにしていたのは、日本ではなかなか注目度が低いマルキシストたちを、「20世紀史におけるマルキシズム」というストーリーラインに一気に乗せてしまおうと考えたのではないだろうか、と思う。まあ、まだ小林多喜二がノートンのアンソロジーに載るまでには至っていないわけだが、その意図はわかる。となると、例えば世界の左翼思想の大きな流れに日本の左翼思想が貢献したものは何だったのかな、と考えざるをえない。ひいては、日本語で書いた・書いている作家の世界史的な意義は何だったのか、と。私見だが、世界の作家たちと交流し、日本の文壇で「世界文学」ということをよく言う大江氏のような人も、実はバスに乗り損ねたのではないかなあ、という思いを強くする。いや、(政治的な発言はともかく)大江氏は実力のある作家だとは思う。ただ、このバスに乗るのには運も実力も必要だよなあ、とは強く感じるし、大江氏の作品群も、『万延元年のフットボール』以降は、究極的には内向きな作品なのではないのかなあという気がする。
振りかえるに、私の興味はそういう世界の大きな流れからはほど遠いなあ、とか、でもそれに乗せていかないとこういう仕事をしている意味はないよな、とかさまざまに思うところはある。さて、私がこんなことを書くのは、べつに「世界」の立場から「日本」を批判するためではない、ということは強調しておきたい。たまたまアメリカで日本文学を学んでいるのだが、なんの因果でこんな仕事をしているかな、とはよく思う。お金にもならないしなかなか評価もされない。しかし、このような視点から「日本文学」を見ることは、「日本文学が世界で評価されない、誤解されている」と嘆くよりも合理的で生産的なように思えるのだ。
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寝起きがいつも最低だ。イライラするが力が出ない。眠い。まぶたが重い。顔が歪む。なんかトイレの夢をみた。複雑すぎて説明が今は出来ない。頭が働いてないんで。整理整頓がなされてない物置のような遊園地、みたいなトイレ。人で混雑している。少しゴージャス。でも不用品... [Read More]
Tracked on May 27, 2005 4:12:41 PM
Comments
いつぞやは「なむぐるま」で失礼いたしました(笑)。新しいブログも興味深く拝読しております。
ところで、敢て中上健次ではなく「中上健二」と書かれたのでしょうか?(他意はありません、このコメントも消していただいてかまいません)
Posted by: unvisibleman | Dec 7, 2004 9:37:11 AM
> unvisibleman さん
ご指摘ありがとうございます。訂正しておきました。
気合いを入れて書いたエントリに限って誤字が出る、というのは何とも恥ずかしいのですが、ま、こういうミスを気にしていたらブログは続けていけませんものね。
Posted by: むなぐるま | Dec 7, 2004 10:40:10 AM
純文学の事は良く知らないのですが、日本文学が第3世界
文学というのは、ひしひしと感じますね。
例えば夏目漱石の「坊っちゃん」は大概の日本人が知っていて
松江の観光ネタにもなっているのですが(本当にマッチ箱
みたいな小さい客車の「坊っちゃん列車」もあります!)
これを外国人に説明するのは難しいものが有りますね。
・夏目漱石とはどういう人物か?
・「坊っちゃん」と言う小説とは何か?
・何故日本人に、この小説が親しまれているのか?
を説明する事から始めなければ行けない様です。まあ、辛うじて
松江、特に道後温泉が夏目漱石と言う作家の縁(ゆかり)の地
であると言う事は理解してもらえそうですが、そこから先と為ると・・・・・
Posted by: abusan | Dec 7, 2004 6:11:35 PM
> abusan さん
お久しぶりです。漱石については、いろいろ思うところがあります。私自身、漱石の作品はどれも好きですし、個人的に思い入れの大きい作品も多いです。このエントリを書いた後で、ちょっとタイプする手が滑ったかなとも思いました。が、やっぱり、海外では漱石が日本で思うほど読まれていない、という現実は知っておくべきだと思うんですよね。漱石の主要な小説のうち、まだ手にはいるのは『こころ』『それから』『坊っちゃん』くらいですよ。『明暗』も『道草』も『三四郎』も、絶版。しかも、『坊っちゃん』の訳は、ジョン・ネイサンが「あの訳は何とかした方が…」というほど、古色蒼然とした訳なのです。私自身、漱石について授業で扱おうとして、余りに入手可能な本が少なくて困ったのを覚えています。
もちろん、アメリカで日本文学全体がそれほど人気がないという現実もあるわけですが、例えば谷崎や遠藤の本が数多く出版され続けている事実と対照して、なぜ英語圏で漱石が読まれないのかということは一考の価値があるように思うのです。
Posted by: むなぐるま | Dec 7, 2004 8:50:29 PM
こんにちは。
夏目漱石については数年前に
「彼の作品は記号論だ。『坊ちゃん』も然り」
という話を知人から聞きました。
「記号論」の何たるかが未だにわからないのですが、非常にヨーロッパ哲学的な解釈、という感じがします。
ここから世界的な(というのは欧・米における、意味で)評価につなげていく、というのは難しいのでしょうか??
それ以前の問題として「電車に乗り遅れている」からもう遅いという可能性もありますが・・・・・・。
「記号論」ももう古いですよねえ。(というか古いような気がします。←わからないので。)
Posted by: 西方の人 | Dec 8, 2004 8:29:20 AM
> 西方の人さん
漱石と記号論を結びつけて読んでいるのは、日本では小森陽一さんとか石原千秋さんとかですかね。もちろんアメリカの学会でもそういう考え方はありますが、西方の人さんが言っておられるように、「記号論というのも今更…」というのと、漱石を記号論として読むということによって日本研究以外の読者へのメリットが少ないということではないでしょうか。
Posted by: むなぐるま | Dec 13, 2004 5:40:29 PM