その時の声明と署名はこちら。この数ヶ月のNHK・朝日問題をめぐる論争を受けて改めて見ると、釣りに引っかかった人達のリスト、という風情もあるが、ここに署名をしている人達を見ると、若手・ベテランを問わず、有力な研究者が名前を連ねている。この人達は、事実をチェックしたのかなあ、という疑問とは別に、「人民法廷」の意味とか、放送の編集における政治的圧力の意味とか考えて署名したのかなあ、と思うのだが、逆に言えば、このような文書に署名する大学教授・院生がこれだけいるということの意味は考えた方がいいと思う。
もう一つ、身近な体験から。
ある日本の近代史関係のイベントで、「従軍慰安婦」をめぐる映画を見たことがあった。韓国系アメリカ人制作のこの映画、「ドキュメンタリー」ではあるが、演技過剰気味の再現映像を多く交えていて、とても事実に基づいた公正なドキュメンタリーとはいえない代物だったのだが、これに、「つくる会」の、藤岡信勝教授と西尾幹二教授が登場する。発言自体は、日本でも主張されている内容と同じものだったのだが、ここではそれは問題にしない。むしろ、演出が問題だ。
お二人が座っているのは、殺風景な、会議室のような部屋。お二人は、やや疲れ気味の表情なのだが、カメラは少し引いた固定アングルからツーショットを撮り続ける。プロフェッショナルな雰囲気は全くない。
一人(どちらかは忘れた)のクロースアップ。汗をかいている。言葉が詰まり気味になる。
このような映像で、「従軍慰安婦は『従軍』ではなく…。」とか、「彼らは売春婦で…」という発言を聞くと、一般人には歴史修正主義者とはこのような姿をしているのか、などと思う人も多いのではないかと思う。こんな映像を撮らせてしまうなんて、「つくる会」にはPR担当がいるのだろうか? と思ってしまった。
いわゆる歴史問題などの問題は、アメリカでも日本でも、出来れば関わりたくない種類の問題ではある。関わったら関わったでいろいろと面倒なことになるのは目に見えている。しかし、この手の問題を看過することにより、取り返しのつかない事態になることもある。たとえば、前に書いたように、『レイプ・オブ・南京』が出たときに、専門が日本の歴史家が批判出来なかったことによるダメージははかりしれないと思う。そういうとき、どう行動したらいいのだろうかと思ったりする。
このように、日本国内の言論と海外の日本研究における日本像のギャップを思うとき、心に引っかかっている一つの文章がある。
シカゴ大教授のノーマ・フィールドが著した『天皇の逝く国で』という本がある。昭和天皇が崩御した1989年に日本にいたフィールド氏が、本島長崎市長、夫が靖国神社に祀られることを拒否した妻、沖縄で日の丸を燃やしたスーパーマーケット店主などに話を聞いた書いた本だ。この本、実はアメリカの大学ではよく授業で使われていたりする。
この本で、本島市長に送られた手紙が多く紹介されているのだが、そのうちの一つ、ある神主が書いた「お決まりの反論」について、著者は次のように書いている。
冷静な論証の口調でありながら、議論の土俵をすりかえていく論法からすると、この筆者と議論するのは困難だろうと察せられる。天皇の開戦の宣言は忠実な立憲君主としての行為であるという彼の最初の主張はーーこれは完全に西洋近代の考え方に立っているーーそれに続く論点によってたちまち土台を掘りくずされてしまう。あとのほうの主張全体を支配しているのは、日本人たることが意味するものへの揺るぎない感覚なのだから。それでいてこの議論自体に、下部・上部構造というマルクス主義の語彙が援用されている。幾世代もの日本の思想家が身につけてきたとおり、日本を西洋近代から救出する努力それ自体が、西洋の道具、とりわけそれらを定式化するのに使われる哲学概念と言語によって、避けがたく汚染されている。 (『天皇の逝く国へ』p.248 )
この一文を読むと、私は途方に暮れてしまう。
一見、この文章は、日本の保守派によくある、「議論のすり替え」に対する批判とも思える。確かに、日本の保守派の議論というのは、「国益」とか「人権」などという概念をその場の都合がいいときだけ援用することがある、という批判は免れないと思われるときがある。この点は、日本の保守派の言論を、日本の論壇の文脈から外に出したときに明らかになることが多い。歴史教科書問題に加え、最近議論になっている、外国人参政権の問題、竹島問題の保守側のトーキング・ポイントを見ると、全体として一貫しない意見の寄せ集めであることがある。それは国内では通用するが、一度日本の文脈から外に出したら、議論の一貫性を問われるだろう。その意味で、この批判は、日本の保守派の言説のひとつの有効な批判になっている、と私は思う。
しかし、「日本を西洋近代から救出する努力それ自体が、西洋の道具、とりわけそれらを定式化するのに使われる哲学概念と言語によって、避けがたく汚染されている」としたら、いったいどうしたらいいのだろうか。彼女の議論の論理的な帰結を考えたら、その「汚染」は、「日本を西洋近代から救出する努力」というより、それを含む日本近代の言論、ひいては「日本の近代」という体験そのものの宿命になりはしないのだろうか。また、もしそうだとしたら、「日本の近代」というのは、常に借り物でしかありえないのだろうか。いっそのこと、その「借り物」感を全肯定できればいいのに、という気もするのだが、ああ、それは出来ない気がする私は何なんだろう。そんなことを言ったら、誰の「近代」が「借り物」でない、と言えるのだろうか。また、日本の近代に語られた言葉の総体を想い、現在あるその英訳を想うとき、確かにそれは「借り物」的オーラを放出しているのだが、だからといって、その言葉の重みを無視する訳にはいかない気がする。映画 "MISHIMA" で、三島が、東大学生たちに向かって語っていた、「君たち、僕はもう、ここまで来たら意地だ」と言う言葉を思い出す。
私は、フィールド氏の文章は正しいと思うが、また同時に、そのあまりの正しい言説を(そのあまりの正しさ故に?)認めたくない気持ちもある。私は、正統であり・確かである「西洋の近代」という基盤に立っている著者が、あいまいであやふやな基盤にある「日本の近代」を見下して、軽蔑しているのではないかと思うし、その軽蔑にどうしても反発してしまう。それゆえ、この本で軽くいなされている、論理的には圧倒的に不利ないち神主(というか、彼が代表するもの)の味方をしたい、と思ってしまう。とはいえ、アメリカの学会では、このような声の味方は少ない。この状況については、いろいろと根本的に考えていく余地があると思うのだが、別に短期的な解決があるわけではない。まあ、私はヘタレなので大きな声では応援できないが、小さな声で、こっそり応援を続けていきたいと思う。