さて、私が以前日本のあるフェローシップに応募したときのこと。結局落選だったのだが、落選の知らせに同封されていた小冊子に、審査委員長による講評が載っていた。この講評で、海外での若手日本人研究者について直接言及した部分があり、私としては日本の研究者が私のような海外の日本人研究者をどう見ているかがよくわかり、腹立たしくも納得したものだった。この講評について少し紹介してみたい。(私が匿名で書いている以上、この講評および著者への直接言及は避けておくが、著者は某超一流国立大学の、一般にも名の知れた教授である。)
この著者は、海外の、特にアメリカの大学の博士課程在学者による申請書が「よく書けている」と指摘する。(カギ括弧は講評の著者。)それは、必ずしも悪いことはないのではないのだが、おそらく、アメリカの大学の博士課程の研究計画書を引き写しているのだろう、と推測するのだが、それにより、「申請書・報告書文化」の弱い国々(それは日本も含むのだろう)の申請書が見劣りするという現象がある、と指摘する。
そこで、著者は、「その研究の成果である論文は誰に向かって書かれるのであろうか」と問う。著者の修辞的疑問を平たく言い直すならば、要するにアメリカの日本人研究者は、日本の学会にその成果を還元するのではなく、アメリカの学会を補完するだけなのではないか、というのだ。そこで、著者は次のように言う。日本やアジア出身の留学生は、博士号取得が第一の目的なのだから、言語や歴史体験などのアドバンテージを生かせる日本・アジア関係のトピックを選ぶ。また、指導する学科のほうでも、ネイティブの知識を利用し、欧米人の知識を補う研究テーマが選ばれているのではないか。しかし、そのような研究は、結局研究先進国と開発途上国の格差を広げることにはならないのか。また、そもそも欧米の大学に留学することを選んだのは、研究環境やいままでの研究の蓄積などの理由はあろうが、日本やアジアの研究をするならなぜ欧米に留学するのか。
著者は結論をぼかしているのだが、あえてはっきり書くと、だから、(研究発展途上国である)日本の財団の研究資金は日本やアジアで学ぶ学生や研究者に与えられるべきだということなのだろう。研究先進国であるアメリカ・欧州の学生・研究者は恵まれた環境の受益者なのだから、我慢しろ、と。
該当の基金が、日本やアジアの学生・研究者の支援を重点的にすべきと考えるのはわかるし、それがその基金の方針なら部外者の私が口出しするいわれはない。しかし、この講評に表れている見解について、いくつか反論したい点がある。
まず、アメリカの大学における日本の研究者について、認識がすこし違っているという気がする。多くの日本人留学生は、日本で奨学金を取るのでなければ、大学から直接得られる奨学金で生計を立てるしかない。学生ビザではアルバイトも限られる。また、アメリカ外で研究・調査をする場合、アメリカ国籍・永住権がなければ、フルブライトなどの大手奨学金の資格もないから、海外で調査する場合に非常に困難な事態になる。該当の基金にも、そのようにアメリカのシステムからあぶれたアメリカの大学所属の日本人やアジア諸国の学生が多数応募しているのだろう。この著者の考えに従えば、そのような学生たちはこのような基金を受け取るべきではないということになる。しかし、そのような多くの研究者(特に、言語のハンデのある人文・社会科学系)の多くは、かなり切りつめた生活を送っている。
しかし、もっと大きな問題は、アメリカ在住の日本人・アジア人研究者が、native informant、つまり、「土着の情報提供者」としてしか仕事をしていない、という大きなところでの認識である。アメリカ在住の日本人研究者は、基本的にアメリカ人研究者の問題意識ーそこにはアメリカ中心的な見方もあるだろうーを素直に受け入れ、現地の生のデータを提供するだけなのだと。わかりやすくいうと、植民地の主人に仕えて、部族の情報を教える土人ということか。一昔前の人類学では、そうした「土着の情報提供者」を利用した研究の問題点について理論的な考察がなされたが、この教授の見解を意地悪に解釈すれば、日本の大学の部族のリーダーとしては、裏切り者には金を出せないよ、とでも言えるのかもしれない。
さて。私は、この見解は心情的には非常によくわかる。むしろ共感すらする。
アメリカで研究する[アメリカ人の]日本研究者を見ていると、自分の文化中心の世界観が鼻につくことがしばしばある。[だから、アメリカ人研究者の問題意識のみが学会で中心的に扱われ、日本人研究者に「土着の情報提供者」的なあり方を強要しているという事情に対して苛立ちを感じることは多い。]そういう[アメリカ人研究者の]連中に限って、フルブライトやら国際交流基金やらの奨学金で月ン十万円ももらって[日本で]優雅な留学生活をしている。(ま、そう見えるのには私の僻みもあるだろうが。)そのうえ、書いた論文も首をひねらざるを得ないものも少なくない。それこそ先進国と途上国の差が広がるばかりである。
[追記:私もアメリカ人の研究者の友人が多いから、この点については必ずしも一般化できるとは考えていないが、アメリカ人の日本研究者が、(日本の)国費による日本留学について既得権益のように考えている点については否定できないと思う。ついでに言うと、地方自治体や公立中学・高校で英語のネイティブスピーカーを受け入れている JET Program は、将来日本に関心を持つ欧米人を増やす意味で意義はあると思うが、あんなに給料を高くしている必要はあるのだろうか。オーストラリアなどで日本語を教える日本人はボランティア同然で教えているのに、日本で英語を教える米国人・オーストラリア人などが、住宅・食事付きで月に数十万円の手当をもらっているのは過剰ではないか?]
しかし、そのような現実に反発して、アメリカで勉強している学生・研究者への支援を閉ざしてしまうのはどうだろうか。むしろ、日本の言語・文化・歴史を体で知っていて、なおかつ欧米の学会におけるコミュニケーション能力を持つ人材を育成すべきではないのだろうか。その意味で、この教授の態度は日本の最高学府の教授にしては少々大人げないという気がする。(それとも、日本の学会を「アジアの盟主」として位置づけるという政治的な意図があるのだろうか。)そのような感情的な反発のため、アメリカの学会の望ましくない現状を変革する芽を摘んでしまっているとは考えないのだろうか。
実際、アメリカのアジア関係学会を見ると、日本学・日本研究における日本人の割合はかなり低い。たとえば中国学・中国研究をみると、ネイティブ中国人(本土系・台湾系・その他)の率が比較的高いのに比べると、日本学はまだまだだ。アメリカの学会でネイティブの割合が増えると、基本的な言葉の解釈などにおけるレベルが上がるし、何よりアメリカ中心の見方が中和される効果があるように思う。日本人研究者がnative informantに甘んじている現状を本当に変えたいんだったら、何より日本人の研究者がアメリカなどの学会でもっと発言する必要があるのだ。
また、この教授は、日本のような研究「途上国」を支援することにより、研究「先進国」に対抗すべき、と考えているようだが、この文章をみるに、英語で発言することの意義を過小評価しているように思う。たとえばアメリカの学会において、もちろん日本研究の専門家は日本語文献を読めるのだが、それ以外の人々にとっては、英語で書かれていなければ書かれていないに等しい。また、日本在住の日本人研究者(とくに日本研究)で、英語で発表できるだけの英語力を持った人を多く知らない。高校時代に英語ができなかったから国文科を選んだ人がおおいのかどうかは知らないが、英語で発表し、議論出来る人はまれだ。通訳を通せばいいのでは、という人は、自ら通訳を通して外国人研究者の発表を聞いてみると良い。通訳を通せば時間が2倍かかるし、なにより日本語を話せる人とは伝わり方が断然違う。ニュース番組でも、アメリカ人の識者の意見よりは日本語堪能な外国人タレントの御説の方が重宝されるではないか。
長くなったが、日本で研究に携わる方にとって、このエントリが海外在住の日本人の立場について少しでも考えるきっかけになれば、と思う。海外の日本人研究者は、自分が好きでやっているのだから、別に支援しなくても、という先入観がある気がする。しかし、仕方ない事情で海外に残っている研究者も多い。海外で研究キャリアを始めてしまうと、日本の閉鎖的な大学システムに入り込むのは難しい。一方、海外ではいつまでも外国人扱いで、異文化や生活苦からくるストレスなどに耐えねばならないのである。また、博士号を取るなどの個人的な利益だけでなく、学会のコミュニケーションなどに生きる人材になろうとか、それなりの公義に立って研鑽している研究者もいる。日本の財団は、もう少しそのような日本人研究者を支援する手段を考えるべきなのではないのだろうか。具体的には、国際交流基金や文部科学省の奨学金に付帯する国籍条項をなくし、海外大学所属の日本人研究者にも研究内容によっては門戸を開くべきではないのだろうか、と思う。また、日本の大学人にも、日本の研究成果を世界に発信するということの意味についてもう少し考えてみて欲しい、とも思う。
…この件については、このブログを始めてからいつかは書きたいと思っていたのでとりあえずは満足している。
これで、ブログに書きたいと思っていたことはすべて書いたかなという気すらする。まあ、このブログを将来的にどうするかはまだ決めていないが、このエントリが一つの区切りにはなるだろう。
【追記 1/11】 一か所、誤解を招く表現があったので加筆しました。