最近、「南京事件」を描いた漫画が掲載取りやめになったりして、ネット上でもこの問題をどう考えるかという議論が多く出て来ているようだ。このことについては、触れること自体リスクが伴うし、また「南京事件」と呼ぶこと自体があるスタンスを示すことになったりして、いろいろと厄介である。このことについて書くことは、不毛な論争を呼ぶだけだし、このことに触れてもあまりメリットはないかもしれない。だが、あえていくつか気が付くことを書いてみたいと思った。
この問題がアメリカで表面化したのは、最近では1997年のこと。ちょうど南京事件60周年のときで、各地で中国系アメリカ人が組織化してシンポジウムなどのイベントをやったりしていた。その渦中にあったのが、今は悪名高いアイリス・チャン著の『レイプ・オブ・南京』という本だった。
この本、今となっては、事実誤認が多く歴史書としては批判に耐えない書という定評が日本・アメリカの学会では定着していると思うのだが、当時は意外と好意的な書評が載ったりした。とくに、1997年12月14日付のNew York Timesの書評では、歴史的事実についてはチャン氏の記述を受け売りする一方、チャン氏の本を「重要な書」と賞賛している。また、日本の中学・高校教科書には南京事件について書いておらず、国民の大部分はこのことについて知らされていないと書いている(これは日本の現状を知っている人には明らかにウソとわかるだろう)。いっぽう、チャン氏の多くの事実誤認についてはふれずじまいである。
この書評の著者は、カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム学教授で、歴史家ではない。そこで、日本史の専門家など多くがNew York Timesに事実訂正を求めて投書した。(私の知り合いでも投書した人を知っている。)しかし、NYTはことごとく無視。結局訂正文がひとつも載らなかった。この一連の事件を指して、東アジア研究のジョシュア・フォーゲル氏は「アメリカ学会にとっての悲しい一日」と呼んでいる。(Joshua Fogel, "The Controversy over Iris Chang's Rape of Nanking" Japan Echo, Vol. 27 No.1 February 2000: pp. 55-57) このフォーゲル氏も、「チャン氏の本によって南京虐殺そのものが否定されることが問題だ」ということで、南京事件否定派とは一線を画しているのだが、New York Timesはそうした学者からの訂正要求もすべて無視したことになる。彼らにとっては、この問題について誤りを認めること自体、南京事件否定派の圧力に負けること、と思っていたのだろうか。また、この件について妥協したように見えることを嫌ったのか。
いっぽう、チャン氏側は、柏書房が『レイプ・オブ・南京』の日本語訳が出版中止になったことに関して、「右翼の圧力に負けた」と主張しているが、実際には、この本には一般読者にもすぐわかるような事実誤認があまりにも多く、柏書房側で修正を申し入れたところ、チャン氏側が拒否したという流れがあった。しかし、チャン氏側としては、「右翼の圧力に負けた」と主張していれば、ウソでもアメリカの一般市民には受け入れられやすいのである。
ともかく、「日本は戦争責任を取らない国」という、安易なイメージを受け入れて、そのイメージに合わない日本の実情を伝えないという意味では、NYTもチャン氏も同罪であろう。また、ここからは私見なのだが、「日本は戦争責任を取らない国」というイメージは、「欧米は人権を大切にする」というイメージの陰画であり、そのようなイメージに伴う目に見えない「利権」の構造のようなものがあるような気がする。その利権を守ることが、NYT にとっての利益だし、チャン氏はその構造を利用しながら自分のイデオロギーを広めている、とは考えられないだろうか。
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同じころ、ABCテレビの深夜の報道番組 "Nightline" で、南京事件の新証拠として『ラーベ日記』が紹介される番組があった。(1997年12月11日放送)。出演者は、アイリス・チャン氏と、専門家としてコロンビア大学のキャロル・グラック教授など。番組内容はここでは省略するが、結びに、アンカーのテッド・コッペル氏が次のような発言をした。
The other day 60 Minutes did a fine segment on Japanese-American children, orphans most of them who, following Pearl Harbor, were sent to a desolate internment camp for no other reason than that their last names were Japanese. It was a terrible injustice to those children and should never have happened.
But if you want to understand why it happened and how people can get swept up in the passion of their times, it helps to know that in 1937 and 38, soldiers of the Japanese army killed in the most horrifying fashion more people in the Chinese city of Nanking than would die in the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. Without history we have no context, without context, we can never begin to understand the why of what nations do.
前半では、日系人の強制収容について触れているが、それが南京事件を持ち出しながら「これには文脈があった」と説明されている。あたかも、南京事件が日系人強制収容を正当化するかのように。また、後半の、「南京では、広島と長崎の原爆の死者の合計以上の人々がもっとも残酷な方法で殺された」というさりげない比較に注目しよう。広島も長崎も、南京に比べれば…、と言わんばかりである。この発言が示すのは、南京の犠牲者が30万人といわれることには、アメリカにも中国にも同じくらいの「意味」があるということ。その点では、「犠牲者が何人でも変わらない」という議論はやはり一面的であって、南京の死者が30万人以上という数字を十分に検証し、議論する価値はあると思う。ともあれ、当時この番組について知ったとき、この言葉をアメリカ屈指のキャスターが発したということが信じられなかった。
日本人の戦争の記憶に関して、「犠牲者の面ばかり強調し、加害者としての面を忘れていた」ということがよく言われるようになって久しい。「戦争体験」についての語りで、どうしても自分たちの苦しみばかりが強調されることはあっただろう。しかし、それが難しいのはアメリカでも日本でも同じだと思う。また、もちろん中共でも。
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誤解のないように言うと、私は、南京事件について、「市民を装ったゲリラ兵を殺害したのは虐殺のうちに入らない」から、「虐殺はなかった」という議論には納得していない。(南京事件があったか、なかったかという歴史的論争については、私は十分に知らないし、このエッセイの範囲を超えるのでここでは触れない。また、その点について読者の方と議論するつもりもない。読むべき資料の紹介は歓迎しますが。)また、中国人の人々が南京事件を「虐殺」と呼ぶことも、(事実関係が覆らない限り)仕方ないとも思う。戦争の両側で歴史認識が違うのは仕方のないことである。アメリカ独立戦争直前に「ボストン虐殺事件」があったが、英兵に殺されたボストン市民は5人だけだった。
しかし、「日本ではメディア検閲があるが、アメリカやヨーロッパでは戦争の問題がオープンに語られ、自らの《罪》について十分に反省されてもいる」、というタイプの一般化も、私には信じられない。上の二つの例にみるように、欧米にもメディアの利害関係があるし、複雑な算段がある。また、そういう一般化を必要以上に強調する日本、海外の人々の背後には、それなりの利益関係があるような気もする。
ここに書いたようなアメリカのメディア事情について、私はアメリカの人々を責める気にはなれない。自国の問題を棚に上げて、こういう問題がありますよとアメリカ人を糾弾するのは、独善的なようで気が引ける。結局は、アメリカ人たち自身が解決していかなくてはいけない問題だと思う。日本でも、南京についての論争は納得がいくまで論争した方がいい。解決していないのに解決しているふりをするのが一番良くない。(そういう意味では、この漫画は元の計画通りに単行本化して、論争の種にするのがいいのかもしれない。)また、これらの論争は、結局は、自分たちがどういう社会を理想とするか、という理想像の反映でもあるような問題だと思う。
でも、日本の人々にこういうアメリカのメディア事情を知っておいては頂きたいとは思う。アメリカやヨーロッパを特別視しないこと、そして、日本でこの論争に関わる人達が、「在外日本人の立場」を代弁するふりをして自分の立場の援護につかうことに注意すること、そのためにも、こういう現実を知ってもらいたいと思った。経験上、日本の人が「こういうことがあると在外日本人が困りますね」ということと、在外日本人が日常で感じている違和感、差異とは、微妙にずれていることが多いと思う。もちろん、それは私一人の主観を通して言うのだが。
また、欧米の「戦争責任」論を日本がそのまま受け入れることは、そのような欧米の算段をも一緒に受け入れることだから、そのこと自体も十分に検討する必要があると思う。欧米と日本にギャップがあるとしても、すべて欧米に合わせる必要はないのではないだろうか。
追記:このエントリは、Soredaさんの「< a href="http://d.hatena.ne.jp/Soreda/">セカンド・カップ はてな店」を読んでいてその応答として書いたものです。南京事件をめぐるさまざまな問題について論じておられるのでぜひご一読を。