マツケンサンバがNew York Times(オンライン版)フロントページに
何ともシュールな…。ちょっとショックでした。
記事のほうは、おなじみのノリミツ・オオニシ氏。「マツケンサンバは、日本の変わりつつある男性像を反映している」とか書いているが、大衆演劇のショー形式の歴史的な解説など、きちんと調べて書いている。結びには、松平健の言葉として、「こういう時代には、サンバしかない!」という言葉を引用している。
何ともシュールな…。ちょっとショックでした。
記事のほうは、おなじみのノリミツ・オオニシ氏。「マツケンサンバは、日本の変わりつつある男性像を反映している」とか書いているが、大衆演劇のショー形式の歴史的な解説など、きちんと調べて書いている。結びには、松平健の言葉として、「こういう時代には、サンバしかない!」という言葉を引用している。
拙ブログも今日をもって20万PVを達成致しました。読者の皆さんにはこの場を借りて御礼申し上げます。
4月にTypepadに移転してからの累計ですので、総アクセス数ではR30さんのところとほぼ同規模と言うことになりますか。
さて。
Op-Ed Columnist: The Hookie Awards (NYT)
NYT コラムニストのデーヴィッド・ブルックスが、「2004年に書かれた最も重要なエッセイ」を独断で選んで自分で創った賞 "The Hookie Awards" を贈っています。個々のエッセイには目を通していないのですが、ブルックスのコラムのほうをご紹介。散人先生が「無断転載」しているファローズのエッセイもこの賞の受賞エッセイです。ブルックスらしく、社会における Public intellectual の役割などを力説しておりますが、アメリカの政治・経済・文化エッセイを読むと、「反知性主義の国」というレッテルがいかに表層的なものかを感じさせます。
【追記 12/27】第二弾が出ました。「冬休みの宿題」ということで。
最近、「南京事件」を描いた漫画が掲載取りやめになったりして、ネット上でもこの問題をどう考えるかという議論が多く出て来ているようだ。このことについては、触れること自体リスクが伴うし、また「南京事件」と呼ぶこと自体があるスタンスを示すことになったりして、いろいろと厄介である。このことについて書くことは、不毛な論争を呼ぶだけだし、このことに触れてもあまりメリットはないかもしれない。だが、あえていくつか気が付くことを書いてみたいと思った。
この問題がアメリカで表面化したのは、最近では1997年のこと。ちょうど南京事件60周年のときで、各地で中国系アメリカ人が組織化してシンポジウムなどのイベントをやったりしていた。その渦中にあったのが、今は悪名高いアイリス・チャン著の『レイプ・オブ・南京』という本だった。
この本、今となっては、事実誤認が多く歴史書としては批判に耐えない書という定評が日本・アメリカの学会では定着していると思うのだが、当時は意外と好意的な書評が載ったりした。とくに、1997年12月14日付のNew York Timesの書評では、歴史的事実についてはチャン氏の記述を受け売りする一方、チャン氏の本を「重要な書」と賞賛している。また、日本の中学・高校教科書には南京事件について書いておらず、国民の大部分はこのことについて知らされていないと書いている(これは日本の現状を知っている人には明らかにウソとわかるだろう)。いっぽう、チャン氏の多くの事実誤認についてはふれずじまいである。
この書評の著者は、カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム学教授で、歴史家ではない。そこで、日本史の専門家など多くがNew York Timesに事実訂正を求めて投書した。(私の知り合いでも投書した人を知っている。)しかし、NYTはことごとく無視。結局訂正文がひとつも載らなかった。この一連の事件を指して、東アジア研究のジョシュア・フォーゲル氏は「アメリカ学会にとっての悲しい一日」と呼んでいる。(Joshua Fogel, "The Controversy over Iris Chang's Rape of Nanking" Japan Echo, Vol. 27 No.1 February 2000: pp. 55-57) このフォーゲル氏も、「チャン氏の本によって南京虐殺そのものが否定されることが問題だ」ということで、南京事件否定派とは一線を画しているのだが、New York Timesはそうした学者からの訂正要求もすべて無視したことになる。彼らにとっては、この問題について誤りを認めること自体、南京事件否定派の圧力に負けること、と思っていたのだろうか。また、この件について妥協したように見えることを嫌ったのか。
いっぽう、チャン氏側は、柏書房が『レイプ・オブ・南京』の日本語訳が出版中止になったことに関して、「右翼の圧力に負けた」と主張しているが、実際には、この本には一般読者にもすぐわかるような事実誤認があまりにも多く、柏書房側で修正を申し入れたところ、チャン氏側が拒否したという流れがあった。しかし、チャン氏側としては、「右翼の圧力に負けた」と主張していれば、ウソでもアメリカの一般市民には受け入れられやすいのである。
ともかく、「日本は戦争責任を取らない国」という、安易なイメージを受け入れて、そのイメージに合わない日本の実情を伝えないという意味では、NYTもチャン氏も同罪であろう。また、ここからは私見なのだが、「日本は戦争責任を取らない国」というイメージは、「欧米は人権を大切にする」というイメージの陰画であり、そのようなイメージに伴う目に見えない「利権」の構造のようなものがあるような気がする。その利権を守ることが、NYT にとっての利益だし、チャン氏はその構造を利用しながら自分のイデオロギーを広めている、とは考えられないだろうか。
◇
同じころ、ABCテレビの深夜の報道番組 "Nightline" で、南京事件の新証拠として『ラーベ日記』が紹介される番組があった。(1997年12月11日放送)。出演者は、アイリス・チャン氏と、専門家としてコロンビア大学のキャロル・グラック教授など。番組内容はここでは省略するが、結びに、アンカーのテッド・コッペル氏が次のような発言をした。
The other day 60 Minutes did a fine segment on Japanese-American children, orphans most of them who, following Pearl Harbor, were sent to a desolate internment camp for no other reason than that their last names were Japanese. It was a terrible injustice to those children and should never have happened.
But if you want to understand why it happened and how people can get swept up in the passion of their times, it helps to know that in 1937 and 38, soldiers of the Japanese army killed in the most horrifying fashion more people in the Chinese city of Nanking than would die in the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. Without history we have no context, without context, we can never begin to understand the why of what nations do.
前半では、日系人の強制収容について触れているが、それが南京事件を持ち出しながら「これには文脈があった」と説明されている。あたかも、南京事件が日系人強制収容を正当化するかのように。また、後半の、「南京では、広島と長崎の原爆の死者の合計以上の人々がもっとも残酷な方法で殺された」というさりげない比較に注目しよう。広島も長崎も、南京に比べれば…、と言わんばかりである。この発言が示すのは、南京の犠牲者が30万人といわれることには、アメリカにも中国にも同じくらいの「意味」があるということ。その点では、「犠牲者が何人でも変わらない」という議論はやはり一面的であって、南京の死者が30万人以上という数字を十分に検証し、議論する価値はあると思う。ともあれ、当時この番組について知ったとき、この言葉をアメリカ屈指のキャスターが発したということが信じられなかった。
日本人の戦争の記憶に関して、「犠牲者の面ばかり強調し、加害者としての面を忘れていた」ということがよく言われるようになって久しい。「戦争体験」についての語りで、どうしても自分たちの苦しみばかりが強調されることはあっただろう。しかし、それが難しいのはアメリカでも日本でも同じだと思う。また、もちろん中共でも。
◇
誤解のないように言うと、私は、南京事件について、「市民を装ったゲリラ兵を殺害したのは虐殺のうちに入らない」から、「虐殺はなかった」という議論には納得していない。(南京事件があったか、なかったかという歴史的論争については、私は十分に知らないし、このエッセイの範囲を超えるのでここでは触れない。また、その点について読者の方と議論するつもりもない。読むべき資料の紹介は歓迎しますが。)また、中国人の人々が南京事件を「虐殺」と呼ぶことも、(事実関係が覆らない限り)仕方ないとも思う。戦争の両側で歴史認識が違うのは仕方のないことである。アメリカ独立戦争直前に「ボストン虐殺事件」があったが、英兵に殺されたボストン市民は5人だけだった。
しかし、「日本ではメディア検閲があるが、アメリカやヨーロッパでは戦争の問題がオープンに語られ、自らの《罪》について十分に反省されてもいる」、というタイプの一般化も、私には信じられない。上の二つの例にみるように、欧米にもメディアの利害関係があるし、複雑な算段がある。また、そういう一般化を必要以上に強調する日本、海外の人々の背後には、それなりの利益関係があるような気もする。
ここに書いたようなアメリカのメディア事情について、私はアメリカの人々を責める気にはなれない。自国の問題を棚に上げて、こういう問題がありますよとアメリカ人を糾弾するのは、独善的なようで気が引ける。結局は、アメリカ人たち自身が解決していかなくてはいけない問題だと思う。日本でも、南京についての論争は納得がいくまで論争した方がいい。解決していないのに解決しているふりをするのが一番良くない。(そういう意味では、この漫画は元の計画通りに単行本化して、論争の種にするのがいいのかもしれない。)また、これらの論争は、結局は、自分たちがどういう社会を理想とするか、という理想像の反映でもあるような問題だと思う。
でも、日本の人々にこういうアメリカのメディア事情を知っておいては頂きたいとは思う。アメリカやヨーロッパを特別視しないこと、そして、日本でこの論争に関わる人達が、「在外日本人の立場」を代弁するふりをして自分の立場の援護につかうことに注意すること、そのためにも、こういう現実を知ってもらいたいと思った。経験上、日本の人が「こういうことがあると在外日本人が困りますね」ということと、在外日本人が日常で感じている違和感、差異とは、微妙にずれていることが多いと思う。もちろん、それは私一人の主観を通して言うのだが。
また、欧米の「戦争責任」論を日本がそのまま受け入れることは、そのような欧米の算段をも一緒に受け入れることだから、そのこと自体も十分に検討する必要があると思う。欧米と日本にギャップがあるとしても、すべて欧米に合わせる必要はないのではないだろうか。
追記:このエントリは、Soredaさんの「< a href="http://d.hatena.ne.jp/Soreda/">セカンド・カップ はてな店」を読んでいてその応答として書いたものです。南京事件をめぐるさまざまな問題について論じておられるのでぜひご一読を。New York Timesのジャック・デリダ氏の訃報(10/10付)にアメリカの大学教授有志が抗議の手紙を投稿。13日付で掲載された。元の訃報を読んでみたのだが、これが確かにひどい。こんな記事がアメリカ最高級の「クオリティ・ペーパー」に載ってしまうなんて、アメリカには知性を尊重する風潮が死に絶えてしまったのかと愕然とした。
この訃報を一読して、まず気が付くのは、著者がデリダの本一冊も読むばかりか、彼の思想を理解しようとした形跡すら見あたらないということ。タイトルからして、"abstruse theorist" (難解な理論家)と少々軽蔑のニュアンスのこもった言葉を使っている。この訃報のひどさが如実に出ている、前半の一部を引用してみよう。
Toward the end of the 20th century, deconstruction became a code word of intellectual discourse, much as existentialism and structuralism - two other fashionable, slippery philosophies that also emerged from France after World War II - had been before it. Mr. Derrida and his followers were unwilling - some say unable - to define deconstruction with any precision, so it has remained misunderstood, or interpreted in endlessly contradictory ways.
Typical of Mr. Derrida's murky explanations of his philosophy was a 1993 paper he presented at the Benjamin N. Cardozo School of Law, in New York, which began: "Needless to say, one more time, deconstruction, if there is such a thing, takes place as the experience of the impossible."
Mr. Derrida was a prolific writer, but his 40-plus books on various aspects of deconstruction were no more easily accessible. Even some of their titles - "Of Grammatology," "The Postcard: From Socrates to Freud and Beyond," and "Ulysses Gramophone: Hear Say Yes in Joyce" - could be off-putting to the uninitiated.
"Many otherwise unmalicious people have in fact been guilty of wishing for deconstruction's demise - if only to relieve themselves of the burden of trying to understand it," Mitchell Stephens, a journalism professor at New York University, wrote in a 1994 article in The New York Times Magazine.
Mr. Derrida's credibility was also damaged by a 1987 scandal involving Paul de Man, a Yale University professor who was the most acclaimed exponent of deconstruction in the United States. Four years after Mr. de Man's death, it was revealed that he had contributed numerous pro-Nazi, anti-Semitic articles to a newspaper in Belgium, where he was born, while it was under German occupation during World War II. In defending his dead colleague, Mr. Derrida, a Jew, was understood by some people to be condoning Mr. de Man's anti-Semitism.
さて、どこから反論を始めましょうか。((c)ディック・チェイニー)
まず、脱構築が「ファッショナブルで、滑りやすいフランスの哲学」と括ってしまう筆者の度胸にも感嘆してしまうのだが、その上に「脱構築」を理解できないことを少しも恥じずに、「脱構築が誤解されて続けているのは、きちんと定義しないデリダのせい」と言い切ってしまっている。いや、確かに脱構築は一言では定義できないですよ。西洋哲学を読破している必要はないが、多少哲学史を理解していて、哲学のテクストを丁寧に読む根気がなければ。ここに引用されている、「デリダを理解するという重荷から解放されるからというだけで、脱構築の死の宣告を願っている人は多い」という言葉は、まさにこの著者にあてはまると言っても良い。
その上、ポール・ド・マンが「ナチ協力者」だった、という疑惑を持ち出して、デリダ自身がアンチ・セミティズム擁護しているのようなレッテル貼り。そのようなレッテル貼りこそ、デリダが脱構築を通して解体しようとしていたことなのに。あ、著者はデリダの本を読んでないからそんなことはわかりませんね。
なぜデリダの訃報がこんなことになってしまったのか。思うに、「脱構築」という言葉が一人歩きして、フェミニズムやらポストコロニアリズムやらにかなり甘い形で援用され過ぎてしまった現実があると思う。そこで、誰もが脱構築に興味を持ったが、はっきり定義するのが難しいとわかって幻滅するか、わからないままに誤用し続けたかどちらかになってしまったことだと思う。そういう意味では、脱構築の人気がデリダの哲学を正当に評価する眼を曇らせてしまっているのかもしれない。
私自身、今は昔ほどデリダの熱狂的なファンというわけではない。デリダの哲学を理解して、手っ取り早く世界観が変わるとか、そういうことはない。また、冷めた目で見れば、デリダは、世界を変革するような哲学者ではなかったかもしれない。(例えばフーコーはそういうポテンシャルを持った思想家だと思う。)しかし、哲学という営みに誠実に向かい合おうとする人々(あるいは、そういう価値を哲学に未だに認めている人々)にとって、デリダは無視することのできない仕事をしたと思う。無知を晒すのを承知で言うならば、私がデリダから学んだのは、哲学を神としないこと、それから、それでも哲学は続けていく価値があるものだということだと思う。
それにしても、こういう「わたしはデリダを読んでもわかりませんでした」的な訃報が新聞に堂々と載ってしまうということ自体、アメリカの反知性主義を如実に示している気がしてがっかりする。ところで、冒頭で紹介した抗議の手紙なのだが、現在でもウェブサイトで賛同者を募っている。現在1000人弱。趣旨に賛同する方はぜひ署名してみてはどうだろうか。(学者が署名運動をするというと普通はあまり賛同できないのだが、この趣旨には賛成できる。)
トラックバック:NYTのデリダ氏の訃報(自由手帖)
まずは、New York Timesに載った、イラクの自衛隊についての記事。
Japan's Troops Proceed in Iraq Without Shot Fired By NORIMITSU ONISHI (Oct. 6, 2004)
この記事、共同電で紹介されたりしていたのでごらんになった方も多いとは思う。実はこの記事について私は松坊堂日乗から頂いたトラックバックで知った。松坊堂さん(でいいのでしょうか)がご指摘されている通り、この記事の著者は、イラク日本人人質事件の「自己責任」論について、「彼らは『お上に逆らったから』罰せられたのだ」と書いた人物である。この記事については私が前に、この記事のステレオタイプ的な日本論が偏見を助長しているのではないかと分析した。その意味では、この記事もまったく変わっていない。
この記事は次のように始まる。
Whenever a Japanese convoy leaves its base here in southern Iraq, the armored vehicles are so spotless that they appear to have just rolled out of a Tokyo car showroom into this crumbling Shiite Muslim town on the Euphrates.
They lack the dents and dirt of other nations' vehicles. Perhaps that is because of the Japanese troops' attention to maintenance or perhaps, as the Iraqis here say, their increasing tendency to stay inside their base with the violence rising outside.
自衛隊の装甲車両は「東京の自動車ショールームから出て来たほど」ぴかぴかなのだそうだ。さて、なぜ「東京の自動車ショールーム」を持ち出す必然性があるのだろうか?
ここでポイントなのは、日本人を「車」で代表させる換喩的な手法である。日本人は生身の人間ではなく、ピカピカの車としか見えない。西洋における日本のイメージが、極端にエキゾチックなものか、経済大国、ハイテク大国になった後のモノ中心のイメージが圧倒的で、日本人を同じ人間として見るということの大きな障害になっていることを考えると、この手の換喩はあまり歓迎できない。
そもそも、この表現に必要性はあるのだろうか? 日本の外交は顔が見えない、ということへの遠回しな批判なのだろうか? そうだとしたら、なかなかスマートな語りではある。あるいは、イラクの人にとって日本のイメージは「経済大国」である、という、イラクの一般庶民の視点に立った語りなのだろうか? どちらにせよ新聞記事としては合格点かもしれない。しかし、私はこういう記事を読むたびに思う。日本の話題だったらいつも「車」とか「相撲」とかステレオタイプに直結した表現を持ち出す必要があるのか? アメリカ政治の記事で必ずどこかでカウボーイについて触れたり、フランスだったらワインとか、インドだったらカレーだとか、そういう記事を見せられたら読者はうんざりするとはこの記者は考えないのだろうか? もういい加減にそういうステレオタイプから自由になる時が来てほしい。そのためには、そのような表現を安易に使わないことが一番だと思う。こういう表現をサラッと使って恥じないという態度にシニカルな無関心というか、敵意のようなものすら覚えるのは私だけだろうか。
また、「自衛隊の車両はほとんど外に出ない」とある。この一文は記事全体の印象を決定づける意味で重要なのだが、オオニシ記者はこの点の事実関係については本文ではほとんど検証していない。日本に批判的なイラク人の大学教授が「自衛隊は外にほとんど出ていない」とコメントしている程度である。サマワ駐留の松本氏は、「すべて予定通り」と言っている。もちろん、自衛隊の発表を鵜呑みにすべきというのではないが、もう少し検証があってもいいと思う。イラクの一般庶民が自衛隊についてどういうイメージを持っているのか、という点は、実際、サマワの自衛隊の記念碑が破壊されたというニュース(読売)もあって興味深い点ではある。しかし、この記事を読んでいくと、イラクの人々の「日本の支援」というイメージはかなり規模が大きい経済支援を考えている人が多いということがわかる。これでは多少水を供給したりサッカーボールを1000個送ったくらいでは、「期待はずれ」である。イラクの人が不満だからと言って、自衛隊が引きこもっているということにはならないだろう。
この記事、自衛隊は「平和主義から離れる」流れの一環である、と結ばれている。オオニシ記者はこの辺りをアピールしたいのだろう。その意味では、この記事はNYTの読者だけでなく、日本の読者にも向けられている。(共同電が紹介記事を書いたのは、まんまと乗せられたのか、それとも直接・間接の依頼があったのか?)しかし思うのだが、イラク情勢がまったく混沌している現在、「日本の軍国主義化」を心配している人はどれくらいいるのだろうか? 憲法改正だって今すぐにも通りそうな印象すら受けるが、どう考えても5年、10年先の話ではないのだろうか? それより、自衛隊の現在の仕事が、将来の日本のイラクへのコミットメントにどう関わるかの分析を読んでみたい。ケリー候補も「多国籍部隊を拡大する」と言っているわけだし。ともあれ、この記者、アメリカの新聞社の日本への特派員のはずなのだが、視点がほとんど日本のマスコミと化しているのは面白い。
長くなったが、私は自衛隊を弁護したいわけではない。むしろ、「東京の自動車ショールームから出て来たばかりのようなピカピカの装甲車両」とか、「引きこもって出てこない自衛隊」とか、あからさまな印象操作とも取られかねない記事に強烈な反感を覚えるだけである。そんなことを書かないで、事実だけ淡々と書くのがジャーナリズムの仕事じゃないんだろうか。最後の判断は読者がすればいいのだから。
しかし、これは外交の問題でもある。イラクに自衛隊を送っているのだから、その点、各国にしっかりアピールしてほしい。この機会に外務省のイラク問題サイトを見たのだが、英語ページは決して充実しているとは言えない。日本語ページに比べてもかなり貧弱である。そもそも、外務省のホームページというのは海外に向けて日本外交のメッセージを発する重要な拠点なんじゃないだろうか?
☆
CBSメモ疑惑でダン・ラザー氏を弁護していたTBSの金平氏のHPが更新されている。ラザー氏が謝罪した直後は更新が止まっていたのだが、また更新が再開されたようだ。メモ疑惑についてもいくつか言及がある。
金平氏も匿名のブロガーの批判はかなり意識しておられるようだし、私もこれ以上コメントするつもりはなかったのだが、これだけは書いておきたいと思ったことがひとつあった。10月6日の、
[私はこの件を是認します〜And I approve this message.]
というエントリ。今回の選挙から、ネガティブ・キャンペーンを減らす目的で、公式TV広告では候補自身が「私はこの件を是認します」と言わなければならない、という内容なのだが、次のように結ばれている。
イラクの大量破壊兵器に関する米調査団の最終報告書が出た。やっぱり大量破壊兵器はなかったという結論。将来のアメリカの教科書にはこの顛末はどのように記述されるのだろう。
(例)2003年3月、わが国は、大量破壊兵器保持を最大の根拠として、サダム・フセイン政権下のイラクに侵攻(invade)した。しかし、その後も占領政策に対する抵抗が根強く続き、わが軍にも千人を超える死者が出た。
もっともその頃に日本みたいな検定制度がアメリカに逆輸入されてたりして。こなんふうに。
(検定後)2003年3月、わが国は、イラク国民に自由と民主主義をもたらすために、サダム・フセイン圧制下のイラクに進撃し、イラク国民を解放した。その後、テロリストたちによる不法な反米蜂起が起きたが、わが軍によって制圧された。
こういうのは是認できないな。
日本の教科書検定制度では「侵略」を「進出」と書き換えるような歴史修正が行われているとでも言いたいのだろうが、「侵略」→「進出」と書き換えろという検定があったというのはあきらかな事実誤認である。これは朝日の有名な誤報記事で、誤報だったことは朝日新聞自身も認めている。(参照)誤報から出たデマを広げるのも許せないが、このポイント自体、本論と何にも関係ないじゃないか。何でも「日本政府は悪」という結論に牽強付会するというのは変だ。私は日本から離れてだいぶ経つので「News 23」の人気はわからないのだが、こういう報道をしていたら視聴者が離れていくんじゃないだろうか。こういう意見ばかりは是認できない。いや、本当に。
追記:このエントリはメディア批評という立場から書きましたが、サマワの治安、自衛隊の活動などがどうなっているのか、興味があります。事実に基づいたレポートがありましたらここのコメント欄などでお知らせ下さい。
アメリカは今年が大統領選挙の年ということで、メディアも国内外の情勢が各候補の支持にどうつながるか注目して世論調査を発表したりしている。イラク情勢は予断を許さないし、国内でも失業率がなかなか改善しなかったりガソリンの値段が上がったりと、政権の支持率に影響を及ぼしそうな事件が多く起こっている。しかし、その割に世論調査の数値は動かない。ブッシュ氏とケリー氏の支持率が共に40%前後で「接戦」を演じ、第三党候補のネーダー氏が一桁。もちろんアメリカの大統領は選挙人の総数で決まるから、選挙の勝ち負けを知るには個々の州(特に"swing states"と呼ばれる接戦の州)の情勢を分析すべきなのだが、国民の支持傾向という面で全国の支持率を見ると、大事件があってもあまり変化がない。
この点について、デーヴィッド・ブルックスがNYTのコラム(6月5日付)で面白い論を展開している。最近の政治学の研究によると、アメリカ人は一般に若い頃の支持政党を一生変えないということらしい。普通、親が支持していた政党の支持者になり、ウォーターゲート事件などの大事件があっても支持政党を変えない。つまり、自分の政治思想に合った政党を支持するのではなく、とりあえず「自分と似たような人々」が所属している政党に自分も属し、その政党が喧伝する政治思想を信奉するようになるという。アメリカでの政党は、同じ政治思想を持つ人々の集まりではなく、むしろ一種のクラブのようなものだというのだ。
さらに、一度そのクラブに属してしまうと、自分の属するクラブに都合の良いフィルターを通して現実を見るようになってしまうと言う。ブルックスは次のようなデータを紹介している。1988年、レーガン政権が終わったとき、インフレ率が下がったかどうかを有権者に聞いた。実際は下がった(13.5%→4.1%)のだが、民主党の熱烈な支持者のうち「下がった」と答えたのはわずか8%にすぎず、50%は「上がった」と答えた。民主党員は、経済が悪化しているという先入観のため現実を見る目が曇っていたというわけだ。一方、共和党支持者のうち「下がった」と答えたのは47%と、現実を冷静に見ていた。しかし、クリントン政権の末期に同じようなアンケートを採ったところ、今度は共和党員が経済情勢を否定的に曲解していたということだ。
ブルックスはこのような状況を指して、アメリカ政治の状況を「部族社会」と呼んでいる。こう考えると、世論調査を取っても数字がほとんど変わらない現状がうまく説明できる。ブッシュ大統領の支持者は、昔から共和党員であり、共和党的世界観でニュースを見ているから、ブッシュ氏支持はそう簡単にはゆるがないというわけだ。民主党側も状況はあまり変わらない。さらに、ブッシュ氏は、イラク政策にせよ、国内政策にせよ、アメリカ全体よりも自分の支持層に向けた政策を取り続けているというのがもっぱらの評判だ。ブッシュ氏の演説を聞いていても、舞台がどこであれ、聴衆が誰であれ、アメリカ国民の40%の自分の支持者に語りかけているという感じがする。共和党支持層は「自分の仲間」という意識を強めるし、民主党支持層はブッシュ氏への嫌悪感を強める。そんなわけで、11月の投票までに何が起ころうと、政党支持が二極化している現状が変わらない限りこのまま接戦が続くだろう。
次の選挙の結果はともかく、このように国内が二極化している状況は気になる。自分の意見に反対する人々を議論を通して理性的に説得できる可能性が低いという現実が、なにをやっても無駄という雰囲気を生み始めている気がする。こうした現状は非常に困ったものだと思うのだ。
このサイトをはじめの頃から読んで下さっている訪問者の方はもう知っておられると思うが、ニューヨーク・タイムズのコラムニストの中で私が特に面白いと思っているのはデーヴィッド・ブルックスである。彼は長年保守系(ネオコン系)雑誌、The Weekly Standardの編集者をつとめていたが、去年の9月からNYTのコラムニストになった。リベラルが多いNYTのオピニオン欄で、ウィリアム・サファイアと共に保守系コラムを連載している。また、公共放送PBSのNewsHourにゲストコラムニストとして参加したりしている。
この前、彼の近著 "On Paradise Drive" がNYTの書評欄で紹介された。書評者はこれも有名コラムニストのマイケル・キンズリー。
まず、ブルックスについてはこう言っている。
For several years, in the world of political journalism, David Brooks has been every liberal's favorite conservative. This is not just because he throws us a bone of agreement every now and then. Even the most poisonous propagandist (i.e., Bill O'Reilly) knows that trick. Brooks goes farther. In his writing and on television, he actually seems reasonable. More than that, he seems cuddly. He gives the impression of being open to persuasion. Like the elderly Jewish lady who thinks someone must be Jewish because ''he's so nice,'' liberals suspect that a writer as amiable as Brooks must be a liberal at heart. Some conservatives think so too.
「リベラルのお気に入りの保守論客」とはよく言われるところ。(ちなみに、「保守のお気に入りのリベラル論客」といえばFox Newsのアラン・コームスであろう。)保守というとFox Newsのビル・オライリーのように、問答無用なところがあるが、ブルックスの場合、きちんと自分の立場を論理的に説明する。最新の社会現象についてもよく調べて書いているし、NYTの中でも場違いな感じはしない。でも、この書評の終わりでキンズリーが言っているように、ブルックスも本当に保守か? と思わせることがある。ついこの前は同性婚支持のコラムを書いていたし。例えて言えば朝日新聞に福田和也が連載を持っているようなものか。(福田和也が本当に保守か? という問題も含めて。)
私がこのコラムニストが好きなのは、アメリカの保守系の論客がどのように理論武装するか、よくわかって面白いから。アメリカの政治評論家は、政治思想に根ざして理論的に考えられる人が多く、日本人にはよくわかりにくいアメリカ特有の保守思想も、それなりに理の通る考え方をしているのである。彼の意見に同意することは実際はそんなに多くないが、その理論武装の部分が読んでいて面白いのである。また、スタンスの全然違うリベラルの読者に保守的な議論をふっかけるレトリックにも興味がある。
さて、この書評、NYTのコラムニスト事情の紹介にもなっている。もう少しキンズリーの書評から引用しよう。
There is a prize for being the liberals' favorite conservative, and Brooks has claimed it: a column in The New York Times. With Brooks, The Times continues its probably unintentional experiment in reinventing the political column. First came Frank Rich, who added culture, high and low, to the traditional tired stew of Washington concerns. Maureen Dowd added psychiatry -- trying to understand politicians as real people, usually not to their advantage. Thomas Friedman added parables, circling the globe in search of small but sturdy anecdotes to support huge structures of metaphor.
このようにコラムニストのポジションがわかってくると、個々のコラムを読んでアメリカの論断の流れのようなものがつかめてきて面白い。この人がここまで言うのか、と考えたりする意味で。たとえば、最近ゴア元副大統領が演説で辛辣なブッシュ批判をして話題になったが、その演説の絶叫スタイルがあまりに大人げないというので、筋金入りのリベラルのモーリーン・ダウドもちょっと引いた、とか。あと、フリードマンを読んでいると、アメリカの国際関係のジャーナリストのちょうど中道の人がどう考えているかの目安にはなる。
また、NYTのオピニオン欄はそれに加えて寄稿欄がある。だれでも寄稿すれば載るというのではなくて、ある程度その道の専門家と言える人々の中から選ばれるようだ。日本絡みでは『敗北を抱きしめて』のジョン・ダワーや、昭和天皇の伝記を書いたハーバート・ビックスなどの寄稿が載っているのを見たことがある。どちらもピューリッツァー賞受賞者なので一応権威があるのだが、他に誰かいないものか。
ニューヨークタイムズの社説・オピニオン欄は、簡単な登録をすればすぐ読めるので、興味のある方は読んでみてはどうだろうか。
日本のテレビニュース(ネット配信)で人質事件についての続報を見てみると、「『自己責任』論への批判が海外からも起こっています」と言っている。それで少し調べてみると、次の記事を発見。
Freed From Captivity in Iraq, Japanese Return to More Pain (New York Times)
結論から言うと、この記事、ニューヨークタイムズ(NYT)の日本報道のお決まりのパターンを踏んでいる。
1:興味を引きそうな最新の時事ネタを紹介。
2:「この現象には文化的な背景があるんですよ」といって、安易なステレオタイプに結びつけた説明を加える。
3:読んでいるアメリカ人は、昔習った日本のえせ知識で日本の最新情報を理解できて、「日本ってヘンな国だな」という偏見をさらに強化する。さらに、「それに比べてアメリカはまだましだ」と思わせる書き方をしているので、自尊心を少しくすぐられていい気分になる。
私がアメリカに来た1990年代前半から、このパターンで書かれた記事は数知れず。NYTの日本記事を批判した本もあった。不思議なのは、日本人ではなく、他の人種や国籍の人間についての記事だったら抗議殺到するはずの記事が、日本についてだったら平気で載ってしまうこと。前述の本の例で言うと、「日本の女性がポルノ漫画を読むのは、隠れたレイプ願望があるから」とかいう記事が、沖縄での米兵レイプ事件の数日後1か月半後に出たこともあった。
で、この記事。4月23日付けで、NORIMITSU ONISHIという記者が書いている。この記事の現状認識(上の1)は、「人質となった日本の若い民間人が今週帰国したが、待っていたのは黄色いリボンの抱擁ではなく、国中の非難に満ちた冷たい視線だった」という冒頭の一文に集約できる。この記者は、この人質事件以前には存在しなかったとされる犯人の団体の不可解な背景や、日本人が関与していると思われる様々な証拠については一言も語らないから、多くの日本人が、この事件全体に不透明なものを感じていたということは伝わらない。また、人質の親族が左翼系の団体と密接に連携して、「人質救出」を盾に派手な反戦活動を繰り広げたことも書いてない。
代わりに、この記者は「彼らは『お上に逆らったから』罰せられたのだ」という説を展開する。(上の2)
普段は超洗練された日本の都会に隠れているが、この島国を何百年と統治してきたのはタテの結びつきである。何かの危機の時には、それが表面化する。元人質の罪は、国のイラクへの渡航規制を無視したことだった。階級がないというが実質的にはタテ社会の日本では、okami、つまり「上にあるもの」に逆らうことが罪であるのだ。
また、「自己責任」論は、どちらかというと一般国民から草の根的に起こってきたのではないだろうか。その時の中心的な感情は「出しゃばって…」というものとは別のものだったと思う。やはり、この3人が、最低限の安全策を取らずに出て行ったことが大きいのではないか。18歳の子供が出て行くのにしっかりした団体のサポートもなく、親は何をしていたのか、というのはどこの国の人にとっても実にまっとうな問いだと思うが。また「プロ市民」というべき団体が関与していた(らしい)ことにうさんくささを感じていた部分も大きいと思う。しかし、この記事ではその辺の背景説明はしない。記事が複雑になってしまうからだ。
話がそれるが、「自己責任」論が出てきた背景には、日本政府が、今回のような事件が起こった場合にあまりオプションを持っていないため、今後似たような事件が起こらないように予防策を張っているという側面もあると思う。今回の事件で、政府やよくやったと思うが、今回のような場合、どうしても国際機関を通しての圧力とか、地元の部族との交渉、あるいはアメリカ頼みということになる。自力で救出部隊を派遣というわけにはもちろんいかないし、他の外交手段も限られてくる。その意味で、日本は狙われたら脆くて、後は運頼みという部分がある。小泉首相や福田官房長官が「自己責任」というのは、それこそ「お上のお達し」という印象を与えかねないが、それはテロ防止の手段が限られていることの裏返しだと思う。
また、この手の説明で問題なのは、これで「わかったような」気分になってしまうことだと思う。実際、この記事を読んだ保守系のコラムニストが、戦死した元アメフト選手の記事で、日本を引き合いに出して、「この選手は日本に行ったら悪人扱いされるだろう。…元人質の三人は現在日本で最も嫌われている人々である。…イラクの人々が豊かで自由な国をつくるのを助けに行った人に日本では敬意を表すると思うもしれないが、そうではない。日本では、いいことをしたらほめられるのではなく、出過ぎたことをしたとして批判されるのだ」などと書いている。こうして、アメリカのコラムニストの間で単純な日本のステレオタイプが増幅されていくのである。
そして、このNYTの記事は、アメリカにさりげなくリップサービスをする。(上の3) 「解放された人質たちを、公に賞賛した政府が一つだけある。それはアメリカだ」と言って例のパウエル国務長官の発言を引用したり、「タテ社会」がいやになった若者は「何か型にはまらないものを求めてマンハッタンのイースト・ヴィレッジにたむろしている」なんて書いてニューヨークの読者に親近感を感じさせたりしている。身近に感じさせるために、読者との接点を求めるのはいい。でも、「アメリカは日本よりすばらしい」と毎回のように結論づけることはないだろう。
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この日本人人質事件の記事は、NYTでありがちな自己中心的な、偏見に満ちた視線の典型といえる。もちろん、ここに書いたような問題はどこにでもあること。日本の海外についての記事も似たり寄ったりのものもあるだろう。ただ、ここで私が取り立てて問題にするのは、すでに書いたように、このような記事が米国のいわゆるクオリティ・ペーパーに載ってしまうこと、このような記事が起点となって、アメリカでの日本への偏見が増幅されること、そして、日本のメディアが尻馬に乗って「海外のメディアではこんなことを言っていますよ」と言ってキャンペーンを張ることである。特に最後の一点は、元の記事の一面性や偏見を考えると、日本のメディアが無批判に「海外メディア」の権威をたてに利用しているのはなんとも愚かに思える。
また、もう一つ注意したほうがいいのは、この一件を通して、元人質が海外メディアの日本班にとっての「反逆のヒーロー」となる可能性があること。ある日本人を、その人の客観的な評価は横に置いて、ただ「日本の体制に反抗している」という理由だけで海外のメディアが祭り上げることがある。前に、TIME ASIA誌で小田実が「アジアのヒーロー100人」か何かに選ばれたことがあった。その意味で、
10 Questions For Jumpei Yasuda (TIME ASIA)
という記事で安田純平氏が早速取り上げられているのは、いやな予感がする。
追記:沖縄レイプ事件とNYTの記事の関連について。記事が出たのは95年11月5日。沖縄の12歳の少女が米兵にレイプされた事件からちょうど1か月半後のこと。訂正しました。でも、ペリー国防相が11月1日に謝罪したり、7日には容疑者3人が罪状を認めるなど、事件の余波が広がっているときにでた記事。悪意があったかどうかはともかく、無神経という謗りはまぬがれられないだろう。ちなみに、この記事の著者は、現在NYTのコラムニストのニコラス・クリストフ。
追記2(2004年9月22日)「また『プロ市民』というべき団体が関与していた(らしい)ことにうさんくささを感じていた部分も大きいと思う。」と言う一文にソースがないとご指摘をいただきましたので少し調べました。
人質事件こう着 “命 後回しにするな” 救出求め国会デモ 撤兵など訴え (しんぶん赤旗)
この記事は、人質事件発生後の4月13日に国会前で行われたデモについて伝えていますが、記事にはこのデモを「呼びかけた」団体として、全労連、安保破棄中央実行委員会、有事法制は許さない!運動推進連絡センター、国民大運動実行委員会の四団体を挙げています。ご参考までに。また、この件についてWikipediaのエントリがよくまとめてあります。
それから、誤解をなくすため、「(らしい)」という部分を削除しました。